「それをお金で買いますか」

 サンデル教授の新刊です。「ハーバード白熱教室」シリーズで有名な先生です。この本のタイトルを読んだだけで、もう何かを考えさせられます。「金」この便利でやっかいなもの。「人間」とのより良い同居はどのようにすればよいのでしょうか?
 先日の新聞コラムにはこんな記事が!

朝日新聞「天声人語」2012.6.2

 そうした中、大阪府泉佐野市が昨日から「市の名前」を売りに出した。市名を企業や商品の名に変える「命名権」の売却である。破綻寸前の財政を補う前代未聞の奇策だが、買い手がつくかどうかは分からない。市民も反対の声が多いようだ。

 そのうち、名前を売りに出す「国」が現れるかもしれません。いや、冗談抜きで。
 
 「グーグル王国」とか「フェイスブック・カントリー」とか・・・。もしかしたら、大金持ちの日本人が日本国の命名権を買い取って「大日本帝国ネオ」とか。。。

 子供の名前も売りに出され、「アップル花子」とか「トヨタ行蔵」とか。。。さらにお金を出すと顔にロゴの入れ墨を彫るとか。。。

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 さて、この本。中身をを読まずとも、表紙の表裏を読むだけでも価値があると思います。たぶん7割方足りるかも知れません。(良い意味で言っております)

 というのは、この方の本の一般的特徴なんですが、ビジネス本のように最近の具体例がページのほとんどを占めているので。

 ですから読み進めていると、道徳的な観点よりもビジネス的な観点が強くなってしまいます。「ほ〜、こんな商売もあり得るのか!」と。

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まずは本のタイトルからです。ズバリ突きつけてきますね!

What Money Can't Buy
The Moral Limits of Markets

 「それをお金で買いますか」

 さらに表紙の裏に書かれた本文より抜粋されたつぎの文章。

 結局のところ市場の問題は、実はわれわれがいかにして共に生きたいかという問題なのだ。

 つぎの文章こそ、この本の眼目です。

「買うことによって失われるものがあるのではないか?」という観点が述べられています。

 私たちは、あらゆるものがカネで取引される時代に生きている。

 民間会社が戦争を請け負い、臓器が売買され、公共施設の命名権がオークションにかけられる。市場の論理に照らせば、こうした取引に何も問題はない。売り手と買い手が合意のうえで、双方がメリットを得ているからだ。

 だが、やはり何かがおかしい。

 貧しい人が搾取されるという「公正さ」の問題? それもある。しかし、もっと大事な議論がかけているのではないだろうか?

 あるものが「商品」に変わるとき、何か大事なものが失われることがある。

 これまで議論されてこなかった、その「何か」こそ、実は私たちがよりよい社会を築くうえで欠かせないものなのではー?

 この30年のあいだに起こった決定的な変化は、強欲の高まりではなかった。そうではなく、市場と市場価値が、それらがなじまない生活領域へと拡大したことだったのだ。

 市場をあるべき場所にとどめておくことの意味について、公に議論する必要がある。この議論のために、市場の道徳的限界を考え抜く必要がある。

 お金で買うべきでないものが存在するかどうかを問う必要がある。

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 彼はなぜこの本を書いたのか?

 すべてが売り物となる社会に向かっていることを心配するのはなぜだろうか。

 理由は二つある。一つは不平等にかかわるもの、もう一つは腐敗にかかわるものだ。

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 サンデル教授は「お金で買えないもの」についても言及しています。

 私たちもあれこれ考えられますが、教授は例をふたつ挙げています。

 「友人」と「ノーベル賞」です。

 もしこれをお金で買ったとしたら、そのものの価値(善)が台無しになってしまうものです。

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 もうひとつ「お金で買うべきでないもの」の例としてつぎの例を挙げています。

 「腎臓」と「子供」です。

 もしこれをお金で買ったとしたら、価値(善)はなくなりはしないが、結果としてほぼ確実に堕落したり、腐敗したり、減少するものであると。

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 私たちはあまりにも道徳的な(あるいは哲学的な)議論を忌避してきました。経済価値こそが中立的な指標だという信念のもとに。それがスマート(洗練)だとされてきました。

 サンデル教授はこう述べています。

 われわれの政治が敵意に満ちているのは、道徳的信条が過剰なせいだと考える人もいる。

つまり、あまりに多くの人々が、あまりに深く、あまりに強くみずからの信条を信じ、それをほかのみんなに押しつけたがっているというのだ。そうした見方は、現在の苦境を誤って解釈するものだと私は思う。われわれの政治で問題なのは、議論が多すぎることではなく、少なすぎることだ。政治が過熱しているのは、中身がほとんどなく、道徳的・精神的内容を欠いているからだ。政治は、人々が関心を寄せる大きな問題にきちんと取り組んでいない。・・・

 ・・・価値判断を避けるこうした姿勢は、市場の論理の中心にあって、その魅力の大半を説明する。しかし、市場を信奉してきたことと、道徳的・精神的議論に関与したがらない姿勢のために、われわれが支払った代償は大きかった。公的言説から道徳的・市民的エネルギーが失われ、こんにち多くの社会を苦しめているテクノクラート的で管理主義的な政治がはびこる羽目になったのだ。

 たしかに信条の対決はしんどいものです。だからそれを忌避して「経済価値」だけを「共通語」にしてきました。

 しかし、「それによって失われるものは何か?」「それは失ってもいいのだろうか?」という原点にたつ議論なら、だれもが参加しやすいものになるのではのないでしょうか?

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 今日はほとんど引用、それも堅苦しい文章の引用ばかりでした。

 しかし実際にこの本を読めば、具体的な例がそれこそ「これでもか」というくらい出ており、実はあっという間に読める、とても読みやすい本なのです。

 そして、誰しも思うことでしょう。

 「え〜〜! 今ではこんなこともカネで売買されているの! 利〜万も堀右衛門も真っ青だっちゃ!」

 まさに「地獄の沙汰も金次第」と信じている人の数は、予想をはるかに超えていることがわかります。

 住みよい社会をつくるために最も効果的なことは、大学の教科書を「日本昔話」や「イソップ物語」に替えることかもしれません。。。