宇宙は「水あめ」のような「ヒッグス粒子」で満たされているらしいんですね?なんとも童話的な表現なので、「量子力学」と「アート」の関係についてあれこれ想像をかきたてられました。
昨日から新聞やテレビのニュースは「ヒッグス粒子発見!」の話題でもちきりです。
主要国が共同でスイスに建造した巨大加速器の価値を大いに示せた大発見のようです。
5千億円もの建造費、たぶんそれに匹敵するであろう研究費や運営費。
これで科学者は予算削減という懐具合の心配も遠のき、二重の喜びに浸っていることでしょう。
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ところで私だけでしょうか?
物理科学の最先端「量子力学」というのは、究めれば究めるほど「アート」に近づく気がしているのは。
今キーボードをたたいているその近くには、先日なくなられた外村彰(とのむらあきら)さんの著書「目で見る美しい量子力学」という本があります。
このタイトルだけで「量子力学」と「アート」が近しいことを感じてしまいます。
ページをめくれば「抽象絵画」のようなミクロ世界の電子顕微鏡写真がいっぱいです。
さて最先端物理学は、学問自体の名前もユニークですよね。
「量子色力学」ですよ!スゴイですね。アートじゃないですか。
素粒子の名前なんかまるで映画「Xメン」の登場人物みたいです。
「ボトム」「アップ」「ダウン」「チャーム」「トップ」「ストレンジ」
さらに「フレーバー」なんていう、よくわかりませんが、そんな種類なのか属性なのかもあるんです。「香り」ですよ。直訳すれば。
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そして、極めつけが「ヒッグス粒子」です。
なにせ宇宙は、この「水あめ」のような粒子で満ちているというんですから。
そのため、他の素粒子は「水あめのプール」で泳ぐように動作が重くなり、それが質量のもとだというんですね。
他の素粒子は、クリームシチューの中の「具」のようでもありますね。
なんとも最先端の科学が身近に感じられることではあります。
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さて、私のつたない「文学的科学研究」においては、偉大な科学者ほど「アート」と関係が深いという独断的研究結果があります。
アインシュタインがなぜ「不確定性原理」を嫌っていたのか。それだって彼流の「美学」が根底にあったようです。
おしなべて、優秀な科学者というのは直感がすぐれているようです。
それは直感的にピタッとくる構造(デザイン)を構想し、それを証明していくという過程をたどるからでしょう。
アートでいえば、彫塑じゃなくて彫刻タイプの人たちなんですね。
石や木の塊を見て、そこに立体的な形を想像し、ノミ一発で彫り上げていく。そんな感じですね。
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物理学と抽象芸術の親近性について、画廊に勤めていた頃買った「荒川修作」の画集を見て(読んで)気づきました。
その本には「荒川のこの作品を見たあるドイツの物理学者は、今まではまり込んでいた袋小路から抜け出せ、貴重な物理法則を発見した」というような解説があったからです。
その作品は、私には実に「わけがわからない作品」でしたが。。。
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同じことは人文科学系にもあって、構造主義の元祖で文化人類学の碩学レヴィ・ストロースなんかも、その思考の枠組みが物理科学者と同じ彫刻家タイプに感じます。
著書に「匂い」や「色」が頻繁に出てくるのも何か素粒子物理学の世界に似ているような気がします。
彼の著書「悲しき熱帯」から少し引用します。
マルクス主義は、創始者がそれに与えた意味において理解する限り、地質学や精神分析学とは、実在の中での異なった次元で、しかし同じ遣り方で働くように私に思われた。
三つの遣り方がいづれも明らかに示しているのは、理解するということは、実在の一つの型を別の一つの型に還元することだ、ということであり、真の実在は決して明瞭なものではない、ということであり、さらに真実というものの本性は、真実が身を隠そうとするその配慮の中に、すでにありありと窺われる、ということである。
三つのもののいづれにおいても、感性の領域と理性の領域の関係という同一の問題が提起され、そして探求によって三者が目指すところも同一である。
すなわち、感性の領域を理性の領域に、前者の特性を少しも損なうことなしに統合することを企てる、一種の「超理性論」である。
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偉大な科学者は偉大なアーティストであると思います。
なぜなら、彼らは究極的な構造(デザイン)=「美」の追求者であるからです。
しかし、「相対性理論」のアインシュタインのごとく、その原理が「美」であっても、それを利用したものが「禍々しきこと」「醜いこと」にもなりかねません。
それが核兵器であり、その派生である「ゲンパツ」でもあります。
だから彼は戦後「核兵器」に反対し、哲学者のラッセルや湯川秀樹、朝永振一郎等とともに「パグウォッシュ会議」でその運動を続けたのです。
彼らは、偉大なアーティストでもあるがゆえに「美」「善」でないものを拒否したのです。
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「アート」はこのように学問の領域を超えて、宇宙的究極の要素であります。
宗教においても同じです。
「曼荼羅」は宇宙の構造=「美」を表現したものとも言えるでしょう。
私が今危惧するのは、諸科学、人間性のもとである「美」=「アート」がその本質を忘れ、邪悪な物を隠す衣装に成り下がっている場合もあるということです。
それは、原発の建物に描かれた田園的な絵であったりします。
意匠をほどこす「もと」に「美」や「善」はあるのか?
そんな問いかけをせずに、アートを施すとするならそれはアートではなく「偽装」というものになるでしょう。
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水あめの「ヒッグス粒子」からとても飛躍してしまいました。
まるで私が加速器にかけられたように(笑)