未来において人間は人工知能とどう付き合っていくのだろうかと多くの人は想像します。そこから多くのSF作品が生まれ続けています。しかし識者の未来予想図は大きく異なります。人間自体が人工知能に(必然的に)置き換わっていくというのです。つまりホモ・サピエンスの終焉です。
最近読んだ科学的裏付けのある未来予想本から、驚くべき未来の一コマを時々抜き書きしていこうと思います。
今日はユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』(下巻)からの抜粋です。
ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』(下巻)P255-P263
第20章 超ホモ・サピエンスの時代へより
持ち運びのできるハードディスクにあなたの脳のバックアップを作り、ノートパソコンでそれを実行したとしよう。
そのノートパソコンは、サピエンスとまったく同じように考えたり感じたりできるだろうか?
できるとしたら、それはあなたなのか、それとも誰か別の人なのか?
コンピュータープログラマーたちが、コンピューターコードから成る、まったく新しいデジタル方式の心を創り出し、それに自己感覚や意識、記憶を持たせられたら、どうなるのか?
そのプログラムをコンピューターで実行したら、それは人なのか?もしそれを消去したら、あなたは殺人罪で告発されるのか?
こうした疑問には、ほどなく答えが出るかもしれない。二〇〇五年に始まったヒューマン・ブレイン・プロジェクトは、コンピューター内の電子回路に脳の神経ネットワークを模倣させることで、コンピューターの中に完全な人間の脳を再現することを目指している。
このプロジェクトの責任者によれば、適切な資金提供を受けたなら、一〇年か二〇年のうちに人間とほとんど同じように話したり振る舞ったりできる、人工の人間の脳をコンピューターの中に完成させられるという。もしそれに成功すれば、生命は四〇億年にわたって有機化合物の小さな世界の中で動き回ってきた後、突如、広大な非有機的領域に飛び出し、私たちには想像もつかないような形を取れることになる。
心は今日のデジタルコンピューターと同じような形では機能しないという学者もいる。そして、もし両者が違うのであれば、現在のコンピューターでは心は模倣できないだろう。とはいえ、試してもみないうちから一蹴するのは愚かだ。
このプロジェクトは二〇一三年に欧州連合から一〇億ユーロの補助金を受け取った。
これはサイエンス・フィクションではない。
ほとんどのサイエンス・フィクションの筋書きは、私たちとそっくりのサピエンスが光速の宇宙船やレーザーガンといった優れたテクノロジーを享受する世界を描いている。
これらの筋書きの核心を成す倫理的ジレンマや政治的ジレンマは、私たち自身の世界から取り出されたもので、未来を背景にして私たちの感情的緊張や社会的緊張を再現しているにすぎない。
だが、未来のテクノロジーの持つ真の可能性は、乗り物や武器だけではなく、感情や欲望も含めて、ホモ・サピエンスそのものを変えることなのだ。
子供ももうけず、性行動も取らず、思考を他者と共有でき、私たちの一〇〇〇倍も優れた集中力と記憶力を持ち、けっして怒りもしなければ悲しみもしないものの、私たちには想像の糸口もつかめない感情と欲望を持ち、永遠に若さを保つサイボーグと比べれば、宇宙船など物の数にも人らないではないか。サイエンス・フィクションがそのような未来を描くことはめったにない。
なぜなら、正確に描こうとしても、当然ながらそれは私たちの理解を超えているからだ。
スーパーサイボーグの生活についての映画を制作するのは、ネアンデルタール人の観客を相手に『ハムレット』を上演するのに等しい。
それどころか、おそらく未来の世界の支配者は、ネアンデルタール人から私たちがかけ離れている以上に、私たちとは違った存在となるだろう。
私たちとネアンデルタール人は、少なくとも同じ人類であるのに対して、私たちの後継者は、神のような存在となるだろうから。
物理学者はビッグバンを特異点としている。それは、既知の自然法則がいっさい存在していなかった時点だ。時間も存在しなかった。
したがって、何であれビッグバンの「前」に存在していたと言うのは意味がない。
私たちは新たな特異点に急速に近づいているのかもしれない。
その時点では、私、あなた、男性、女性、愛、憎しみといった、私たちの世界に意義を与えているもののいっさいが、意味を持たなくなる。
何であれその時点以降に起こることは、私たちにとって無意味なのだ。
私たちがあっさりブレーキを踏んで、ホモ・サピエンスの性能を高めて異なる種類の存在にしようとしているさまざまな科学のプロジェクトを中止するかもしれないなどと想像するのは甘過ぎる。
なぜならそうしたプロジェクトは、ギルガメシュ・プロジェクト(不老不死計画)と分かち難く結びついているからだ。
なぜゲノムを研究するのか、あるいはなぜ脳をコンピューターとつなごうとするのか、コンピューターの内部に心を生み出そうとするのかと、科学者に訊いてみるといい。十中八九、同じ紋切り型の答えが返ってくるだろう。
私たちは病気を治療し、人命を救うためにやっているのだ、と。
コンピューターの中に心を生み出すことの意味合いは、精神疾患を治すよりもはるかに劇的ではあるものの、そのような紋切り型の答えが、正当化の根拠として返ってくる。
なぜなら、それに異論を挟める人はいないからだ。
だからこそ、ギルガメシュ・プロジェクトは科学の大黒柱なのだ。
このプロジェクトは、科学のすることのいっさいを正当化してくれる。
フランケンシュタイン博士はギルガメシュに便乗している。
ギルガメシュを止めるのが不可能である以上、フランケンシュタイン博士を止めることもできない。
唯一私たちに試みられるのは、科学が進もうとしている方向に影響を与えることだ。私たちが自分の欲望を操作できるようになる日は近いかもしれないので、ひょつとすると、私たちが直面している真の疑問は、「私たちは何になりたいのか?」 ではなく、「私たちは何を望みたいのか?」かもしれない。
この疑問に思わず頭を抱えない人は、おそらくまだ、それについて十分考えていないのだろう。