「幸せの画家」の秘密

 ルノワールの絵と本人の肖像はとても対照的です。華やかな絵の裏に深い悲しみと決意がありました。

 ルノワールは実に多作だったようです。生涯に描いた作品は6千点にも及ぶそうです。

 梅原龍三郎やら伊藤清永やら多くの日本人画家が、ルノワールに大きな影響を受けてきました。

 私も何度か日本の美術館や展覧会で彼の絵を見ています。

 しかし、見るたびに作品の素晴らしさに驚く反面、キレイキレイの絵ばっかりだな〜という思いも少しありました。

 さて先日、テレビでルノワールの特集があり、はじめてルノワールの肖像を見ました。

 なんと痩せて神経質そうで、彼の絵と対照的なことでしょう!

 番組を見ていくうちに知りました。

 彼がなぜ「幸せあふれる絵」しか描かなくなったかを。

 その背景には知られざる悲劇がありました。

 ルノワールの友人で画家であり援助者でもあったバジールは、当時、生活に困窮していたルノワールを、ヴィスコンティ通りにある自分のアトリエに同居させていた。1870年、普仏戦争が勃発するとルノワールも召集され、ボルドーの第10騎兵隊に配属されるが、赤痢にかかり、翌年3月に除隊している。バジールは、普仏戦争に自ら志願し、29歳の若さで戦死した。ルノワールの悲しみはとてつもなく深かったという。

 バジールの死後、ルノワールは自らの気持ちを立て直すべく、ある決心をしました。

 「芸術が愛らしいものであってなぜいけないんだ?世の中は不愉快なことだらけじゃないか」

 その時から彼は、同時代の印象派の画家たちとは一線を画す「幸せの画家」へと変貌し、生涯それを守り続けました。

 同時代に同じダンスホールを描いたゴッホやロートレックの作品に華やかさはありません。陰鬱で重々しい雰囲気が画面を覆い尽くしているのです。それらは、ルノワールが描いた華やかな作品とはまるで正反対。何故これほどまでに違うのでしょうか?

 当時のフランスは1900年のパリ万博に向け、都市開発を急速に進められていました。その一方、モンマルトル界隈には娼婦宿やキャバレーが建ち並び、パリの街は繁栄と暗い影がまみえる、混沌とした雰囲気に包まれていました。ルノワールはメランコリックで生々しい現実には一切触れず、華やかで活気に満ちた風景だけを描いたのです。その背景にはかけがえのない友情とそれを引き裂いた、知られざる悲劇がありました。

 華やかさ、楽しさ、美しさに彩られたキャンバスの裏側に、戦争に切り裂かれた深い悲しみが隠されていたとは。。。

 私たちが暮らす身近な生活の多くの場面でも、きっと同じようなことがあるでしょう。

 人々が描く「人生キャンバス」の裏側に、どんな悲しみがあるのかを知ろうとする気持ちが大事だと思いました。

参考
 ゴッホの手紙は900通