記憶力について

 もっとも強力で、かつもっとも軽視されている「脳力」とは「記憶力」ではないでしょうか?最近私は「記憶力」に敬意を抱きはじめました。
 きっかけはふたつです。

 ひとつは、90歳になるわが父親の記憶力低下を日々感じさせられることです。

 (直前)記憶力が弱まっていくと日々の生活、対人関係の質は極度に劣化していきます。

 やむを得ぬこととはいえ、本人も周りもつらいことです。。。

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 ふたつめは、一昨日親戚の葬式で和尚さんが目をつむって長い時間読経したことです。

 早口の読経で、私はウトウトしていました。

 ふと目が覚めて和尚さんを見たら、目をつむって何も見ないで読経していたのです。

 その様子を見てから眠気はふっとび真剣にお経を聴き始めました。 

 20分くらいも読経していたでしょうか。

 読経後和尚さんが話すには、ある大切な「経典」の25ページ分くらいを諳誦したそうです。

 いろいろ考えさせられました。

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 それまで私は「記憶力」をこう揶揄していました。

 世間一般も同じように考えているはず、と思いながらですが。

 「今の秀才たちなんて記憶力がいいだけさ、考える能力なんか低いのさ。だから世の中変わらないのさ」

 半分は負け惜しみだと自分でも思いますが、半分はほんとにそうだと思っていました。

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 しかし、どうも違うんじゃないか?と思えてきたのです。

 どんなスポーツでも優秀な運動選手というものは必ず基本的な運動神経を備えています。

 記憶力もそれと同じで、それなしでは他の能力が育たない「ベース脳力」じゃないのかなと。

 「記憶力」は人の生存や社会生活にとって、とてつもなく重要な脳力じゃないかと思えてきたのです。

 もしかしたら人は「記憶力」だけで生存できるかもしれません。

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 「天才は1パーセントの才能と99%の努力から成る」といわれますが、

 その1パーセントの才能がぬきんでた記憶力であって、それが99%の努力を支えるのだと思えます。

 記憶力の観点から天才たちを見直すと、やっぱりそうだよな〜と思います。
 
 たとえば聖徳太子は10人の話を一斉に聞くことができたらしい。

 原爆製造の中心をなし、現代コンピューターの原型をつくったノイマンは高度な物理計算を頭の中だけで行えたらしいです。

 さらにはシェークスピア劇の俳優でもあるローレンス・オリヴィエやマイケル・ケイン等が出演する映画では、よくもここまでと思わせるノンストップのセリフを喋ります。

 やはり天才、秀才たちを支えているのは優秀な「記憶力」のように思えます。

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 高校時代を振り返って、あ〜。。。あの先生の言うとおり勉強すれば良かったな〜と思うことがあります。

 それは英語の勉強に関して、倫理社会の先生が話してくれた方法でした。

 「英語で書かれた物語を一篇まるごと暗誦しなさい」というのです。

 そんな悠長な!という思いでだれも真似しなかったようですが、今思えば、もしそれをしていれば今に至るも英語の例文を簡単に引き出すことが出来たことでしょう。

 昔は日本でも中国でも、漢詩や四書五経などを暗記させられたようです。

 今考えてみるとすばらしい脳力トレーニングであり、脳力の基本データベース構築といってよいものかもしれません。

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 30年、いやもう少し前かな〜、NHKアナウンサーの鈴木健二さんが『記憶力のすすめ』という本を出し、ベストセラーになりました。

 余談ですが、鈴木健二さんについてウィキペディアにはこんなことが書かれていました。

 鈴木が尊敬するピカソが日記に「多くの人は日記を書く。自分は日記のかわりに絵を描く」と書いた言葉に感動、「多くの人は日記を書く、それならば私は原稿を書く」と決心した。

 この本が出た頃、まだパソコンは世に出ていないか、もしくは黎明期であり、人間の記憶力が仕事にとって今よりもはるかに大切な時代でありました。

 また自分で辞書を引き、自分で紙に書くという作業が必要だったため、直前記憶力も鍛えられたように思います。

 ベストセラーになったのは、まともな記憶力なしには仕事にならない時代であることを皆が認識していたからでしょう。

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 CPUにあたる演算処理能力は生まれつきのものかもしれませんが、記憶力はどんな人でもある程度開発可能な能力かもしれません。

 というのは世界歴史上最大の天才ともいわれる空海上人は、10代の後半超人的な記憶力を身につけるため、山野をさまよい歩きました。

 「虚空蔵求聞持法」という真言を大自然の中で百万遍唱えると、超人的記憶力を獲得できるとされていました。

 空海上人は四国高知室戸岬の洞窟でついにそれを達成し、朝日が目に飛び込むとともに超人的脳力を身につけたようです。

 実は、私の家から40キロくらい先に柳津虚空蔵尊という虚空蔵菩薩を本尊とする寺があります。

 ずいぶん前のことですが、そこにこの真言が掲示してあったので、私も(ほんの少しだけでも)空海さんにあやかりたいなと思い暗記しました。

 「ノウボウアキャシャキャラバヤ・オンアリキャマリボリソワカ」

 しかし私が百万遍唱えるにはこの世の時間だけでは足りないようでして。。。

   →「宇宙記号」空海の書

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 さて現代、ワープロ、パソコン、スマホ・・・と人間の脳みそを支援する?道具が普及しました。

 その結果、多くの人々が自分自身の記憶力の衰えに愕然とする時代となりました。(ツールがない時代を生きた年代だけが自覚するのですが)

 自動車ができて足腰が弱ったがごとく、電卓ができて暗算ができなくなったがごとく、今やパソコンやスマホで記憶ができないオツムになってしまった私たちです。

 はたしてこれが進化といえるのか。。。

 人間の頭をコンピュータの機能にたとえるなら、考えることは「CPU」、記憶することは「メモリー」と「ハードディスク」です。

 CPUがいくら優秀でも、記憶装置が貧弱だと作業する実体に乏しく実りはありません。

 また一時記憶装置である「メモリー」が小さいとつくえの作業場所が狭いのと同様で、他の機能がどんなに優秀でも処理に時間がかかります。

 やっぱり「記憶力」は一番大切な「脳力」なのだと思います。

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 10年ほど前に、未来予想で有名な科学者カーツワイルは予言しました。

 「とても近い未来、人類は記憶力を人工のメモリースティックで補っているはずだ」

 つまりビートたけしとキアヌ・リーブスが共演したSF映画「JM」のように頭にメモリースティックを差し込むようになっているはずと未来予想していたのです。

 カーツワイルの予想によれば今頃ははすでにそうなっているはずですが、幸運にも?まだ頭蓋骨に穴を開けてスティックを差し込んでいる人は見かけません。

 『2001年宇宙の旅』と同じように3,40年先読みしすぎたのかもしれません。

 逆に考えれば、「自分頭」の復活にまだ期待できると喜んで良さそうです。

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 さて、記憶力がなぜ大切か、もっとも大事な点を考えてみたいと思います。

 それは3.11の記憶です。

 もっとも被害の大きかった宮城県に住む私でさえ、あの日、あの頃の恐怖や不安がもうおぼろげになってきています。

 あれほど恐怖した原発や放射能についても、忌避の気持ちは変わらないまでも、再稼働のニュースなどにあきらめの気持ちを抱いてしまうようになりました。

 すべて「記憶力」が劣化しているせいなのだと感じるのです。

 「記憶力」といえば、 多くの人は文字や数式、図形などの「知識」を記憶する能力と思うことでしょう。

 私はそれ以外に、いやそれ以上に「感覚の記憶」も「記憶力」の大事な要素であると思うのです。

 「記憶力」を軽視することは、実は私たちの感性の劣化をも招いているように思うのです。

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 私たちは「記憶力」をもう一度鍛え直さねばいけないと思います。

 昔の人が行ったように、すばらしい文章を暗記すること、草花や木々、動物たちのことを自ら学び記憶していくこと。

 自らの記憶力を引き出して出力する習慣を持つこと、つまり何かを書くこと、人に考えを話すこと。

 ときには映画「マトリックス」のような電脳機械のチューブを身体から取り外さねばなりません。

 そのとき私はまちがいなく「あ〜なんとわが記憶力の貧困なことよ」と落胆することでしょう。

 しかしそんな「記憶力」でも、それこそが「自分自身」なのだとと思って慈しみ育てていくことが大事だな〜と思うのです。

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 少なくなったメモリーを何とか使い回ししながらも必死に生きているわが父はじめお年寄りたち。

 まるで宇宙の果てから生還した「はやぶさ」のごとくです。。。

 さて季節は読書の秋、何かすばらしい詩でも暗記しようかな〜。