ゴーゴリーが描くロシア人の魂

 19世紀ロシア文学は、なにゆえ独特の魅力を放つのか? その理由は、ゴーゴリーが作品の中で主人公に語らせた「ロシア人の魂」というものが、あらゆる作家の作品に隠されているからだと私は思います。「タラス・ブーリバー」から再度抜粋します。
  前回はこちら→ゴーゴリーの風景描写に圧倒される

 ゴーゴリーが17世紀前半の史実をもとに描いた物語「タラス・ブーリバ」で、コサックの師団長ブーリバに語らせた言葉こそ、近代ロシア文学のバックボーンであると思います。

 ロシアにおいてキリスト教(ロシア正教)は、母なるロシアの大地と一体化し、精神ではなく全身体をもって感受される土着的宗教となりました。

 それはタイガの雄々しき針葉樹林のごとく、ロシアの大地にあまねく深く根ざした「ロシヤ人の魂」です。

 「タラス・ブーリバー」という作品の中で、軍事共同体であるコサックの師団長ブーリバーが、戦いを前に仲間のコサックに飛ばした檄(げき)こそが、いみじくもそれを言い表しています。

 まるで、著者ゴーゴリーが自らの言葉として語っているように私には思えます。

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ゴーゴリー「タラス・ブーリバ」より抜粋

「わしが一同に対して申しのべたいことは、諸君、われわれの盟友の信義がどんなものであるかということなのじゃ。

 諸君は父親たちや祖父たちから、われわれの祖国がすべての人々にどのように大切にされてきたかを聞きおよんでおられるじゃろうが、ギリシャ人どもにも身のほどを思い知らせてやったし、ツァリグラード(イスタンブール)からもチェルヴォーネッツ金貨を納めさせたし、都市は豪華絢欄をきわめて、神殿も栄え、大公たちもロシヤ民族の大公で、つまり、われわれ自身の大公たちで、カトリックの異端者どもではなかったのじゃ。

 ところが邪教徒どもが全部うばい取りおって、何もかもなくなってしまった。あとにはただわれわれだけが孤児となって残されただけで、そうじゃ、力とたのむ夫に先立たれた寡婦のように、われわれ同様に、われらが祖国も孤独な身の上となったのじゃ! このようなときに際して、われわれ仲間たちはたがいに手を取りあい、ロシヤ正教徒団体をつくりあげたのじゃ!

 この中にこそ、われらが盟友の信義の基礎があるのじゃ!

 盟友の信義より神聖なものは絶対に何もないのじゃ! 

 父親は自分の子供を愛し、母親はわが子をいつくしみ、子供は父と母を恋いしたう。だが、これはそんなものではない、諸君、野獣でも自分の子供をかわいがるのじゃ。ところが、そうした血縁によってではなく、魂によって肉親とおなじ契りを結ぶことのできるのは、ただひとり人間だけじゃ。いろんな異国の土地にも仲間同士というものはあるにはあったが、このロシヤの大地の上における、このような仲間同士は、一度もあったためしがない。

 諸君のうちの多くの者だけが異国の土地に長年を過してきたのではない、ほれ、見ればあそこにも人間たちがおる! 同じく神の創りたもうた人間で、自分の仲間と同じ話を交わすこともできるが、しかし心の底からの言葉を語るとなると、どういうことになるじゃろうか、どうじゃ、駄目じゃろうが。

 賢い人々じゃが、どうもそういうわけにはいかんのじゃ。同じような人間たちじゃが、どうも違っておる!違っておるのじゃ、諸君、われわれロシヤ人の魂のように愛することは、知恵だとか、そのほかのもので愛するというのとは違っておる、神がわれわれにあたえたもうた、すべてのものでもって愛するということは、だが・・・

 とタラスは言って片手をふると、白髪頭をふるわせ、口ひげをもぐつかせて、また話しつづけた。

 「違うんじゃ、そんなふうに愛することは誰にも絶対できんのじゃ! わしも知っておるが、今ではわれわれの祖国でも卑劣なことがおこなわれておって、誰もかれもが自分たちの穀物の堆束(つみたば)や干し草の山や馬の群れのことばかり考えておって、みながみな、自分たちの封印をはった蜜酒の樽を穴蔵へ入れ、安全にしておくことしか考えておらんのじゃ。

 碌でもない邪教徒の風習をまねおって、自分の言葉さえ忌みきらい、自分で自国語を話したがらず、魂のない畜生を市場で売り渡すように、自分で自分の仲間を売り渡しておる。他国の王の恩恵が、いや、それが王ならばまだしものこと、黄色に染めた長靴で彼らの鼻面を蹴飛ばすポーランドの大地主の恩恵が、彼らにとっては、どんな正教徒団体よりも大切なのじゃ。

 しかし、どんな下劣な、ろくでなしでも、それがどんなやつであろうとも、たとえ尻尾をふって煤の中をころげまわり、体じゅう真黒になって、へいこら這いつくばっておるようなやつでも、そいつにもやはり、諸君、ひとかけらのロシヤ人の感情は残っておるのじゃ。

 そして、その感情がいつの日にか目覚めると、その哀れなやつは悔恨の情に責められて、両手で床を打ちたたき、おのれの卑劣な生涯を大声をあげて呪いながら自分の髪の毛をかきむしり、その恥ずべき所業を苦悩によって贖おうとすることじゃろう。

 そういった連中のすべての者に、ロシヤの大地のなかの盟友の信義がどんなものであるかを知らせてやるのじゃ! 

 もし、いよいよ死ぬべき最後のときがすでに追ってきたとしても、われわれが喜んで死のうとするように振舞うことのできるやつは、あいつらの中に一人もおらんのじゃ・・・誰にもできんのじゃ、誰にも! やつらの臆病な鼠根性では、とても及びもつかぬことじゃ!」

 このように話しっづけてきた隊長は、演説をおわってからも、まだいつまでも、コサックの戦闘生活のあいだに銀髪になった頭をうち振っていた。

 立ちならんでいた一同を、この演説は激しく揺り動かして、深く深く胸の奥底まで沁みとおっていった。

 隊列の中の一番の年寄りたちも、白髪頭を地面へ深く垂れたまま、身じろぎもしないで立ちつくしていて、老いの目にそっと涙の露がたまってくると、それをゆっくりと袖で拭きとっていた。

 そのあと、老人たち一同は、まるで申し合せたように一斉に片手をうち振り、経験ゆたかなその頭を揺りうごかしてうなずき合った。

 疑いもなく、明らかに、老いたるプーリバは彼らの心のなかに、悲しみや苦しみや勇気や、あらゆる人生の災厄にもまれて賢くなった人間の心のなかにある、あの親しみぶかい高貴な感情をいっぱいに満たしたし、それはまた、たとえまだ人生を知らなくても、若々しい真珠のような魂で、彼らをこの世へ生んでくれた老いたる両親の永遠の喜びとなるものをいっぱいに感じとっていた若者たちにとっても同様だったのだ。