自然は曲線を創り人間は直線を創る

 日本人初のノーベル賞受賞者湯川秀樹の読書エッセー「本の中の世界」を再読しました。湯川秀樹は洋の東西を問わぬ大変な読書家でありました。この本で取り上げている作家や作品は多様です。
 荘子/墨子/文章規範/近松浄瑠璃/源氏物語/近世畸人伝/夏目漱石/エピクロス/エラスムス/カラマーゾフの兄弟/ナンセン伝・・・

 物理学者である湯川秀樹の哲学的原点を感じ取ることができ、真の科学者と言われる人の思想の奥深さや人間的感性の豊かさ、謙虚な姿勢に心を打たれました。ちなみに彼がもっとも好きで研究にも大きな影響をうけたのは「荘子」だったようです。

 今日はこの本の後半に載せてある「自分の書いた本」より抜粋して引用します。

自然は曲線を創り人間は直線を創る。往復の車中から窓外の景色をぼんやり眺めてゐると、不意にこんな言葉が頭に浮ぶ。遠近の丘陵の輪郭、草木の枝の一本々々、葉の一枚々々の末に至るまで、無数の線や面が錯綜してゐるが、その中に一つとして真直な線や完全に平らな面はない。これに反して田園は直線をもって区画され、その問に点綴されてゐる人家の屋根、壁等の全てが直線と平面とを基調とした図形である。

 自然界には何故曲線ばかりが現はれるか。その理由は簡単である。特別の理由なくして、偶然に直線が実現される確率は、その他の一般の曲線が実現される確率に比して無限に小さいからである。しからば人間は何故に直線を選ぶか。それが最も簡単な規則に従ふといふ意味において、取扱ひに最も便利だからである。

 自然の創造物である人間の肉体もまた複雑微妙な曲線から構成されてゐる。併し人間の精神は却って自然の奥深く探求することによって、その曲線的な外貌の中に潜む直線的な骨格を発見した。実際今日知られてゐる自然法則の殆ど全部は、何等かの意味において直線的なものである。しかし更に奥深く進めば再び直線的でない自然の神髄に触れるのではなからうか。ここに一つの問題、特に理論物理学の今後の問題があるのではなからうか。

 この短文が書かれるより、ずっと以前にアインシュタインは一般相対論を樹立した。そこに現われる重力場の基礎方程式は、非直線的であった。そして、また空間自身も曲り得たのである。そこに直線的でない自然の本質が顔を出していた。しかし、それは極微とは反対のいわば極大の世界に関するものであった。この数年来、ハイゼンベルクなどが素粒子の世界における非直線性を大いに問題にしている。ところが非直線的な自然法則から、ある近似または特別な場合として直線的な規則性を導き出すことは、数学的に極度にむつかしい。それでアインシュタインの一般相対論のような美事な成功には、なかなか到達しそうもないのである。

 曲線をアナログ、直線をデジタルとおきかえても通づるところがあるような気がします。

 さて原発を日本に導入した当時の読売新聞社主かつ原子力委員会の初代委員長正力松太郎は、原子力委員会の委員の人選のさい、ノーベル賞受賞の湯川秀樹を入れて、委員会を内外ともに権威づけようとしました。

 湯川秀樹は原発に対して懐疑的でしたが、前年に湯川秀樹の名前を冠した奨学金制度が読売によって創られたため拒絶できなかったようです。そのころの葛藤と病気を理由に委員を辞退した経緯がうっすらと感じられる文章が続きます。

<このへんのお話は私もファンである小言幸兵衛さんのブログ「咄の話」にある「原子力大臣正力松太郎の誕生」に詳しいのでぜひご覧ください。>

 「極微の世界」が出版された一丸四二年以後、一九四八年にアメリカヘ出かけるまでの間に、私は何冊もの本を書いた。特に終戦直後の三年間は、私のような科学者の大して面白くない随想が意外に歓迎された。一種の啓蒙時代であった。一九四七年に、私は「原子と人間」と題する詩をつくった。いや詩などと呼べるほどのものでなく、少年少女向きの短文とでもいった方が当たっているであろうが……

 人間はまだこの世に生まれていなかった
 アミーバもまだ見えなかった
 原子はしかし既にそこにあった

 人間はしかしまだ原子を知らなかった
 人間の目には見えなかったからである

 また長い時間が経過した
 人間はゆっくりと未開時代から脱却しつつあった
 はっきりとした「思想」を持つ人々が現われてきた
 ある少数の天才の頭の中に「原子」の姿が浮んだ……

 原子時代が到来した
 人々は輝しい未来を望んだ
 人間は遂に原子を征服したのか
 いやいやまだまだ安心はできない
 人間が「火」を見つけだしたのは違い遠い昔である
 人間は火をあらゆる方面に駆使してきた

 しかし火の危険性は今日でもまだ残っている
 大の用心は大切だ
 放火犯人が一人もないとはいえない
 原子の力はもっと大きい
 原子はもっと危険なものだ
 原子を征服できたと安心してはならない
 人間同志の和解が大切だ
 人間自身の向上が必要だ

 世界は原子と人間からなる

 一九四八年から一九五三年までアメリカに滞在していた間にも、日本の新聞や雑誌などに頼まれて、いくつか随想を書いた。帰国してからは、それ以上に多くの文章を書かねばならなかった。それ等をまとめて一冊にして、「しばしの幸」と題して、一九五四年に読売新聞社から出版した。その頃の私には、「身辺多事」という感じが特に強かった。新らしくできた基礎物理学研究所や、国際理論物理学会議などの仕事に忙殺された。折角、久しぶりで京都に帰ってきても、花を見る暇もなかった。この本の序文の最後に
  京四月いとまなき身のゆきずりに花をしばしの幸と眺むる
という歌を添えたが、それはいつわらざる実感であった。この本が出てから間もなく、新らしく発足した原子力委員会の委員を引き受けさせられた。それは私にとって特に重荷であった。自分が適任でないことを、つくづくと悟った。病気になったのを機会に、一年あまりで無理やり辞任させてもらった。