「朝もや」と「TPP」

 朝靄(あさもや)で対向車が見えない!こんな時ヘッドライトを点灯している車の数が国民レベルを表しているのかもしれません。TPP後の日本がどうなるか少し予想できそうな気がします。

成熟した国民なら安心

 もしライトを点ける人が8割を超えていたら、日本はTPPを結ぼうが何にも困らないはずだ、というのが私の仮説なんです。

 どうしてかっていうと、ヘッドライトを点けるということは「自分が見るため」ではなく「他のひとが自分を見える」ようにするためで、成熟した人しかしない行為だからです。

 成熟した国民は、安直に「安物買い」には走らないでしょう。

 成熟した国民は、質の高い「良きもの」や「良きこと」を成り立たせるあれこれを考え創造できるでしょう。

 つまり、成熟した国民なら状況がどう変わろうと「知恵」をだせるはず、だからTPPでいったん「えらいめ」にあっても、なんとかメタモルファーゼ(変身)していけるだろうと思うのです。

水は低きに流れる

 ま〜TPPとは「水は低きに流れる」の国際経済版みたいなやつなんで、高きにいるわがニッポンにとってはデメリットの方がはるかに多いと私は思っています。

 延ばせるものならどこまでも延ばしていきたいところですが、どうもその反対に行く可能性も高そうです・・・。

 しかし、仮にそうなっても「カムバックのやりよう」があるんじゃないか?そんなことを今日は考えようと思って書いています。

実際の私たちは?

 朝靄のとき、私はヘッドライトを点けて走りますが、他の車はというと、おおよそヘッドライト点灯が2割、スモールが3割、半数以上の車は無点灯で走ります。

 ということは、(あくまでも仮説ですよ)たぶんTPPでこんなふうなデメリットが生ずる・・・というストーリーをになう人たちが国民のほぼ半数。

 TPPの悪影響を避けるための創造やその需要をになう人たちが国民の約2割、どちらにころぶかわからないのが約3割といったところでしょうか。

 これじゃ安心できない。だからTPPは困ったことであるのでしょう。

自立コミュニティーの誕生

 TPPの打撃はまず農業に来そうです。しかし、農業を安い、高いの経済価値だけで考える人ばっかりではないのも事実です。

 新しい農業をになっていくのは従来の農家から「個人」や新しき「地域社会」に代わっていくのではないでしょうか。

 もちろんそれと並行して従来の農家は大規模化するでしょうし、異業種による農業工場なども多くなっていくでしょう。

 これらの変化でもっとも重要なことは、農業の担い手が代わることにより、新たな価値基準を持つ「自立コミュニティー」が増えていくだろうということです。

 その「自立コミュ二ティー」はエネルギー問題に対しても同じスタンスで自給自足的な自立の工夫をしてくことでしょう。

 さらに、そのコミュニティーは「街全体がわが家の庭」という発想で車との新しい共存関係を模索したり、失われ続けてきた古き良き「近所付き合い」も、現代風の味付けで復活させていくことでしょう。

 その街では、米や野菜は自分たちの農園でつくるんです。食べ物を育てることで共同作業による連帯を復活させ、子どもの教育にも活用するんです。

 実際テレビや新聞で、このような地域コミュニティーが、埼玉県などの大都市部にも生まれているということが報道されていました。

高い食物が家計を助ける

 テレビで見たことばっかし言ってすみませんが、ヨーロッパだったかアメリカだったかの話です。有機農法の高い食べ物を買い続けている人たちがこう言ってました。
 
 「私たちの買う野菜や食べ物は高いです。でも、良い食材だから外食せずに自分で料理をつくって食べるんです。結果的にお金がかえってかかりません」

 成熟した人ほど、一番高い買い物が「安物買い」だと知ってるんですね。
 
 もちろん、このような形態に移行するには長い年月がかかるでしょう。でも、もしこのような「自立コミュニティー」がたくさん増えていったとしたら、とても住みやすい良い国になっていくでしょう。

 さらには、カリスマのような政治家に「自分は何も考えないで、自分に都合のよいことだけ何かしてもらおう」と期待する家畜のような国民性も薄れていくことでしょう。

 こんなコミュニティーには原発なんかは大変な迷惑だし、国と国の争いみたいなことにもブレーキをかけていくことでしょう。

鎖国と開国

 TPPは現代の黒船とも言われています。私も大変似ているなと思います。だから世の中全体としては避けられない流れなのかな、と思っているのです。
 
 私たちの頭は、日本の「鎖国」はたいへん非合理なことで、文明の進歩を遅らせたと刷り込みされているんですが実は違うようです。

 『「鎖国」の比較文明論』という本を読みましたが、全くその逆です。一部引用します。

 著者の上垣外憲一氏は、日本は当時の野蛮な欧米ではなく、朱子学を主軸とする中国文明を意図的に選択した、そしてそれは当時、当然の選択であったと分析しています。

 儒教文化は、明治維新にいたって否定的に見られるようになるが、一七世紀の時点において、世界のどの宗教、イデオロギーよりも開明的、人道主義的な思想を語り得たのは、藤原惺窩の文章が雄弁に物語っている。

 彼が十七世紀の初頭に「船中策」で語った、人はすべて天の理を受けているから外国人も自分たちと同じであり、それゆえ異国の慣習、法律を尊重せねばならないという思想は、西洋において一八世紀を待たねば聞くことのできなかったものである。

 西洋の啓蒙主義哲学に少なくても百年先駆けて、格調の高い人道主義を述べているのである。まさに鎖国の行われた時代の日本人はこの朱子学の持つ先進性にひかれたのであって、それは反動的と呼ばれるべきものではない。

 この本では、1690年にオランダ東インド会社の医師として日本を訪れたドイツ人、エンゲルベルト・ケンペルの言を紹介しています。彼はまず、鎖国は許されざることと語っています

 我々が住んでいるこの小さな世界を分割するのは元来道に背いたことであり、またこの世界での人間の交流を分断するのは、まことに粗暴な犯罪であると見なしても良いのではあるまいか・・・
 
 従って、造物主の配慮と自然の法則に思いを致すことなく、この神聖なる人類の交際社会を無謀にも隔離分断して恐るることを知らぬ日本国民のやり方は全く背理の行為である。

 ところがケンペルは同時に逆のことも言っているのです。

 ケンペルは、もしも世界の諸国が、他国から隔離された状態になれば、戦争がなくなり、教育や技芸など内的な充実に努めることが可能になるのではないか、と言い、日本はその模範ともなるとまで言う。

 ・・・(人々が国外への欲望を捨て去れば)その場合、逆に各民族は外寇の憂いにそれほど気を遣わずにすみ、彼らの公務にも私用にもより良き配慮を払い、祖国の中の未開荒蕪の地を開墾し、学問、技術、道徳の分野ではより更なる熱意と精励を以て自己を陶冶し、信賞必罰をより公正に施し、子供の教育、家事全般には益々熱心に身を入れ、つまり、一言を以てこれを言えば、日本人の模範例に倣って国民として最も幸福な状態の頂点に近づいてゆくことになるであろう。

 ・・・これを、当時のヨーロッパの代表的な君主フランスのルイ一四世の治世と比べて見れば、その相違は明らかだろう。ルイ一四世は重商主義政策の遂行でフランスの富を増大させはしたが、その生涯の大半は他国への侵略戦争に費やされ、フランスの国力を消耗させた。ケンペルが「日本人の模範に倣」えば、より内的に平和で充実した国民生活が実現するだろう、と書いたのには、戦乱に明けくれるヨーロッパという対照物が身近なものとして存在していたのだ。

 いつの時代にも、現代と全く同じ構造があり、同じ正論がありました。ところが「水は低きに流れる」ことに人の世は逆らえない、というのがこの世の原理のようです。残念ながら・・・。