『今ファンタジーにできること』

 女房が孫にいろいろ本を買ってあげています。小さい頃にワクワクして読んだ本は一生の宝物のように思います。『今ファンタジーにできること』を読みながら、「文学の豊かさ」というものをあらためて感じています。
 かつて『ゲド戦記』が宮崎ジュニアによってアニメ化されました。アーシュラ・K・ル=グウィンはその原作者です。今、彼女の名作の一つといわれる『闇の左手』というSFを読んでいます。もう一か月ほど寝床で少しづつ読んでいます。

 この本(闇の左手)、半分までは数ページ読んでは眠くなり・・・だったんですが、半分を過ぎてからはがぜんおもしろくなり、今「物語」の醍醐味をたっぷりと味わっているところです。

 私の定義「真の文学は読むのに時間がかかる」(いやそうじゃない、と云う人もいるでしょうが、個人的な経験から出した独断的な定義ですのであしからず。。。)

 なぜ読むのに時間がかかるかといえば、想像力をかなり発揮しないと読めない、あるいは、言葉や文章一つ一つの含蓄が豊かすぎるからです。
 
 それは、上等な容器に盛られた極上の料理だったり、上品な器にのせられた質素だが手の込んだあったかい料理だったり、ぱくぱく食べるにはもったいない食事にたとえられるでしょう。

 思い起こせば、スタニスワフ・レムの作品だけを読んだ一年間もありましたし、山本周五郎だけの一年間もありました。

 さて、そのル・グウィンのファンタジーに関するエッセーや講演録をまとめた『今ファンタジーにできること』を、ちょこちょこ読んでいるんですが、とても感動と納得があります。

 数ヶ月前「ファンタジーの力」というブログでも紹介しました。

 「物語(文学)」を通して「芸術の本質とは何か?」について大いに考えさせられます。

 特に、「物語(文学)」を要約して理解したつもりになったり、物語そのものを体験せずに単にメッセージを探したりすることは無意味である、と指摘しているのは、文学すら「効率」という経済観念で処理しようとする私たちの宿病を指摘されているように感じ、恥じ入ってしまいました。

 読書において、物語の主人公に自らなりきることと、他人事として高みから眺めることとはまったく異なることです。

 ほんの少しつまみ食いで抜粋します。

「ファンタジーについて前提とされているいくつかのこと」より

 わたし自身の作品について言えば、それを善と悪の戦いと呼ぶ人がいるとしたら、なぜそんなふうに言うのかも、どうしてそういう言い方ができるのかも、わたしの理解を超えています。

 わたしは戦闘や戦争については、まったく書いていませんから。

 わたしのつもりでは、自分が書いているのは(ほとんどの小説家と同じで)人が過ちを犯すこと、そして、ほかの人であれ、本人であれ、誰かがその過ちを防いだり、正したりしようと努めて、けれどもその過程で、さらに過ちを犯さずにはいられないことです。

 (年齢にかかわらず)成熟していない人たちは、道徳的な確かさを望み、要求します。これは悪い、これは善い、と言ってほしいのです。わけのわからないこの世の中で、子どもやティーンエイジャーは、確固とした道徳的足場を見つけようともがきます。彼らは勝つ側にいると感じたいのです。少なくともそのチームの一員だと思いたいのです。

 彼らにとって、ヒロイック・ファンタジーは、倫理的な明快さを感じさせてくれるものかもしれません。しかし、(疑われることのない)善と(検証されることのない)悪との問の戦いと称するものは、物事を明快にする代わりに、ぼやけさせます。それは、暴力についての単なる言い訳にしかなりません。それは、現実の世界の侵略戦争と同じくらい、浅はかで無益で卑劣なものです。

 ティーンエイジャーたちがトールキンのそれのような、本物のヒロイック・ファンタジーを見つけてくれることを期待します。そういうファンタジーは今も書かれていますから。そしてわたしは、ファンタジーの本を出版する人、装丁する人、宣伝する人、売る人が皆、本物のファンタジーにそれにふさわしい栄誉を与えてくれることを期待します。

 ファンタジーが単なる逃避や願望の充足に成り下がったり、空虚なヒロイズムや無思慮な暴力ヘの耽溺に陥ったりすることがときにあるとしても、ファンタジーが定義からしてそういうものだというわけではないのです。ですから、そういうものであるかのように、取り扱ってはいけないのです。

 ファンタジーは、善と悪の真の違いを表現し、検証するのに、とりわけ有効な文学です。

 わたしたちの現実が見せかけの愛国心と独りよがりの残忍さへと堕落してしまったように思われる、このアメリカで、想像力による文学は、今もなお、ヒロイズムとは何かを問いかけ、権力の源を検証し、道徳的によりよい選択肢を提供しつづけています。

 戦いのほかにたくさんの比喩があり、戦争のほかにたくさんの選択肢があります。そればかりか、適切なことをする方法のほとんどは、誰かを殺すことを含んでいません。

 ファンタジーは、そういうほかの道について考えるのが得意です。そのことをこそ、ファンタジーについての新しい前提にしませんか。

「メッセージについてのメッセージ」より

 わたしは読者にも学校に行っている年齢の子どもにも、大人にもーーこれこれの物語のメッセージを教えてくれと、しよつちゅう頼まれる。

 わたしはこの人たちに言いたい。あなたは間違った言語で質問をしている、と。
 
 フィクションの書き手であるわたしは、メッセ−ジを語ることはしない。わたしは物語を語る。

 たしかに、わたしの物語は何かを意味している。でも、それが何を意味するか知りたいなら、物語にふさわしい言語で、その間いを投げかけなくてはならない。メッセージなどという用語は、解説書や説明文、訓話にふさわしいものだ−それらはフィクションの言語とは異なる言語で書かれている。

 物語が「メッセージをもっている」という考えは、その物語を二、三の抽象的な言葉に縮小することが可能だということ、学校や大学の試験で要求されるように、またそっけない書評に見られるように、コンパクトに要約できるということを前提にしている。

 もしそれが真実なら、どうして作家はわざわざ、キャラクターや人間関係やプロットやら風景やらをつくりあげる苦労をするのだろう? どうして単に、メッセージを示して終わりにしないのだろう? 

 物語は考えを隠すための箱なのか? 裸の考えの見栄えをよくするためのきれいな服なのか? 口に苦い考えを飲み込みやすくするための砂糖衣なのか? さあ、いい子だから口をおあけ。あんたのためになるものだよ。フィクションは装飾的な言葉遣いの中に、理性的な考えを隠していて、その考えこそが、究極の実体であり、フィクションの存在理由なのか?

 そうだと信じて、たくさんの教師がフィクションを教え、(子どもの本専門の) たくさんの書評家が書評を書き、たくさんの人々がそれを読む。問題はその信念が間違っているということだ。

 フィクションは意味がないとか、役に立たないとか言いたいのではない。とんでもないことだ。

 わたしの考えでは、物語を語ることは、意味を獲得するための道具として、わたしたちがもっているものの中でもっとも有効な道具のひとつだ。物語を語ることは、わたしたちは何者なのかを問い、答えることによってわたしたちのコミュニティーをまとまらせるのに役立つ。

 また、それは、わたしは何者なのか、人生はわたしに何を求め、わたしはどういうふうに応えられるのかという問いの答えを知るのに、個人がもつ最強の道具のひとつだ。

 しかし、それはメッセージをもつ、ということと同じではない。文学的な短篇や長編の複雑な意味は、その物語そのものの言語に参加することによってのみ、理解可能だ。その複雑な意味をメッセージに翻訳したり、訓話に縮小したりすることは、もとの意味を歪め、裏切り、破壊する。

 それは、芸術作品は頭だけで理解するものではなく、感情や体そのものでも理解するものだからだ。

 このことは、ほかの芸術についてのほうが受け入れられやすい。ダンス、風景画 − これらについては、喚起される感情そっちのけで、どういう「メッセージ」をもっているかを論じるということは起こりにくい。音楽についてもそうだ。

 歌がわたしたちにとってもつ意味をすべて言葉で言い表すことはできないということを誰しも知っている。歌の意味は理性的なものというよりは、深いところで感じられるもの、わたしたちの感情を通して、体全体を通して感じられるものであり、知性の言語ではそれらによる理解を十分に表すことができないからだ。

 実際、芸術そのものが、心、体、そして魂が理解したことを表現するためにわたしたちがもっている言語なのだ。

 どんなふうにであれ、その言語を知的なメッセージに縮小したら、すべてが根本的に破壊されるほど不完全なものになつてしまう。

 これは、ダンス、音楽、絵画と同様、文学にもあてはまることなのだ。しかし、文学は言葉によってつくられる芸術なので、何も失うことなくほかの言葉に翻訳できると考えてしまいがちだ。そういうわけで一部の人は、物語はメッセージを伝える方法に過ぎないと考える。

 そして、そういうわけで、子どもたちも大まじめにわたしに訊く。「伝えたいメッセージがあるとき、それにふさわしい物語をどうやってつくりあげるのですか?」わたしが答えられることはこれだけだ。そんなふうにはなっていないの。わたしは伝言サービスじゃないわ。あなたへのメッセージはありません。あなたにあげられるのは物語です。

 理解や知覚や感情という点でその物語からあなたが何を得るかは、部分的にはわたし次第だ。

 というのは、その物語は、わたしが情熱をこめて書いた、わたしにとって重要な意味をもつものだから(物語を語り終わって初めて、何の話だつたかわかるにしても)。

 けれども、それは読者であるあなた次第でもある。読書もまた、情熱をこめておこなう行為だ。ダンスを踊ったり、音楽を聴いたりするときと同じように、物語を頭だけでなく、心と体と魂で読むならば、その物語はあなたの物語になる。

 そしてそれは、どんなメッセージよりもはるかに豊かなものを意味するだろう。それはあなたに美を提供するだろう。あなたに苦痛を経験させるだろう。自由を指し示すだろう。読み直すたびに、違うものを意味するだろう。

 小説そのほか、子どもたちのために真剣に書いたものを、書評家に、砂糖衣をまぶしたお説教のように扱われると、悲しみと憤りを覚える。

 もちろん、子どものために書かれた道徳的教育的な本はたくさんあり、そういうものならそういうふうに論じても失うものはない。

 しかし、子どものために書かれた本物の文学作品、たとえば『なぜなぜ物語』の「ゾウの鼻はなぜ長い」や『ホビットの冒険』を芸術作品として扱わず、単に考えを運ぶ乗り物として教えたり、評したりするならば、それは重大な誤りだ。

 芸術はわたしたちを解放する。そして言葉の芸術は、わたしたちを言葉で言えるすべてを超えた高みに連れていくことができる。

 わたしたちがおこなつている教育や書評や読書がこの自由、この解放を讃えるものであったらよいのにと思う。学校の子どもたちが物語の中にメッセージを探すことを教えられる代わりに、本を開きながら、「ほら、新しい世界へのドアが開いた。わたしはそこで何を見つけられるかな」と考えるように教えられているなら、どんなによいだろう。

 子どもたちには、いわゆる「学問」の前に、「物語」に大いに親しんでほしいものだとつくづく思います。

 大人は子どもに「ためになる本」ではなく、「本物の、わくわくする物語」を与えていきたいものです。

 それは子どもらに、ル・グゥインがかくいうものを与えてくれることでしょう。

 「それは、わたしは何者なのか、人生はわたしに何を求め、わたしはどういうふうに応えられるのかという問いの答えを知るのに、個人がもつ最強の道具のひとつだ。」

 そうしたら大人になっても、どんな科学技術があって良いものか、どんな科学技術があってはならないものか、理屈ではなくて感性で悟ることができるでしょう。

 私たちの希望は、つねに「子どもたち」にあると思います。

 だとすれば、それはどんな親にも大人にも、その「責任」と「希望」が等しく与えれられているということです。そこに本来の「人としての平等」が、一つあるのではないでしょうか。

参考
(児童文学)
 本嫌いだった宮崎駿さん
 ファンタジーの力
 寅さんとスウェーデン
 ケストナーと美智子様 
 「コクリコ坂から」いいね!
 ナウシカスタイル
 モモが出番を待っている
(スタニスワフ・レム)
 毛細血管の話
 人間の理性の限界
 キューリ夫人がもし今を知ったら
(山本周五郎)
 この世は巡礼である