「鬼剣舞部」に入学した子たち

 「高校」に入学したんじゃないんです。「鬼剣舞部」に入学したんです。実にいいな〜この子たち。
 鬼剣舞(おにけんばい)。これは岩手県北上市周辺に伝わる郷土芸能です。

 鬼の面を付け、太刀や扇を使って踊る踊り手とお囃子方で構成されます。

 その舞踊は実にリズミカルで勇壮、物語性があり、見る人を皆とりこにします。

 昨晩のテレビ番組で「鬼剣舞部」があるという地元の高校「北上翔南高等学校」が紹介されました。

 部員なんと六十数名!

 練習の様子を見ると、とても真剣、いや実に高度なテクニックを要する高等舞踊だと心底びっくりしました。(いや〜、カッコイイ!)

 生徒たちは毎晩夜遅くまで練習しているようです。年間40回ぐらい様々な地域の行事や大会で踊る機会があるそうです。

 さて、リポーターのお笑いタレント松村邦洋が「『鬼剣舞部』に入りたくてこの高校選んだ人、手をあげて!」と部員に問いかけました。

 すかさず、なんと・・・そこにいた半分くらいの生徒が、元気よく手をあげたんです!

 こういうのっていいな〜、とつくづく思いました。

 ふと数年前、昼ご飯を食べていたときのことを思い出しました。

・・・・・・・・・

 季節は春、入学シーズン、お母さんと一緒に座った少し大きめの制服姿が初々しい新中学生が隣にいました。

 制服を見れば、最近有名大学進学校に特化し、急速に実績をあげている地元の中高一貫私立進学校のものです。

 お母さんが席から離れたのをきっかけに、私は彼にこう尋ねました。

 「新中学生だね。制服カッコイイね。ところで部活は何するの?」

 そうしたら彼は、はにかみながらこう答えました。
 
 「僕たちの学校には部活はないんです。いろんな行事はあるんですけど」

 賛否両論あるでしょうし、私だって受験競争という似たような経験はしてきましたから否定はできません。

 でも、中学校からもうお受験予備校か。。。と思うと、多くの学校が「産業ロボット育成工場」みたいなものになってしまったんでは、と気が滅入りました。

 それじゃ小学校は中学校の、中学校は高校の、高校は大学の、大学は会社の、すべて予備校か?と思えて空しくなってしまいました。

 最近子どもや若者の顔が、以前より皆似ているなと感じるんですが、もしかしたら、こういう予備校的画一化と関係があるのでしょうか?

・・・・・・・・・

 しかし、この世はけっこう捨てたものではないようで、世がロボットコース主流となっても、この「鬼剣舞」をするために学校を選ぶというような生徒もいるんです。

 とても嬉しいことです。

 「あそこの学校、制服がないから入りたい」「あの学校、元プロサッカー選手が体育の先生だから入りたい」「あの学校、社会貢献活動が充実しているから入りたい」・・・

 有名大学の進学率で選ぶのではなく、子どもたちが多様に、自分の価値観で学校を選ぶことがもっと当たり前になったら、社会に出てからも「(真の)自分頭」で考える人たちは多くなることでしょう。

 中学も高校も何かの手段なんかじゃない。それ自体が固有の意義を持つべきだ。画一化なんかすべきでない。もっともっと個性化していくべきだ、と私は思うんですが。

・・・・・・・・・

 今、ここにいることの存在意義よりも、未来の相対的優位さだけを極端に望んで、今を手段としてだけ生きるというのは、やはり根本的に違うのでは?、少なくとも加減が少し過ぎているのでは?と、感じます。

 子どもたちよりも、親がそのような相対的競争性能だけを子どもに望むからこうなるんでしょうね。いい大学からいい会社へと。すでに磨き上げられた「きれいな窓をみがく人」ばっかりにあこがれる。。。

 そのように親が望む出世コースを選んで、まじめに競争(だけ)してきた子が大人になって、この社会のエライ地位を占めていくのです。

 これじゃ、競争万能社会、現実迎合主義が永遠に続くのは当たり前です。

 別な価値観で動く社会を、凡才がたゆまず、少しづつ、ど田舎に創っていって皆に「なるほど」と思わせることしかないのかな〜。

 できれば鬼剣舞部の子らが将来の日本を背負っていってほしい。

 彼らは「自分頭」で「鬼剣舞部」に入学し、そこで「地域の歴史」や「様々な年齢の人同士のつながり」「収穫の喜び」「人を感動させる喜び」を学べるはずだから。
 

参考 
 きれいな窓をみがく人