人間とは何か?ある方の『悪魔の辞典』にはこんな定義が。「人間とは単なる生存に必要な以上に脳細胞が異常増殖した猿である」さらに。。。
「人類は地球を食い潰して滅びる種である」「人間は生きて生殖しているだけである。何かと理由をつけて」
私はさらに付け加えたい。
「人間とは言葉に仕える僕(しもべ)である」と。
ブログを通して普段おぼろげに思っていることをまとめてみたいと思っています。(退屈させると思いますが。。。)
こんなテーマを選ぶのは、やはり「原発問題」に影響されています。
言葉がいいように使われて。いいように説得されて。。。これじゃ何でもありじゃないか、と厭になってしまうことがしばしばだからです。
人間の業とは「考える」こと
際限のない欲望を満たすために増殖し続ける人間。その結果、環境を破壊し、共生すべき生物も絶滅に追いやる人間。まさにガン細胞と同じような生き物が私たちです。
進歩、発展、成長こそ最も有益と考え、それを誇りに思う人間。しかし、分裂、増殖、肥大と何が違うのか。地球や他の生物にとっては迷惑この上ないことでしょう。
人間は考えることで他の生物を凌駕してきました。それゆえに、その能力を最もかけがえがないものと思っています。しかし、これこそ傲慢という人間の業ではないのでしょうか。
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残念ながら、優秀といわれる人間の多くが、権力や物質的な充足をより求める傾向があります。彼らは生存競争を勝ち抜き、それを誇りに思い、政治家として、あるいは経済家として、多くの羊のような人間を率いて、ますます自信を身につけていきます。
自らの力をより発揮し、より困難な競争にうち勝ち、利益や誇りという充足感を味わいたいという潜在意識のもと、ある意味競争ともいえる戦争さえ正当化する人の何と多いことでしょうか。
自己実現をめざす彼らの潜在意識は、実は自分の命は最もいとおしいものと考えています。しかし、何という皮肉か、他者の命に対する意識はその強さに比例して少ないのです。
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考えるということは、逆説的にいうと、変えること、前に行くこと、拡がること、つまりエントロピーの増大に拍車をかけているだけともいえます。老化や劣化を積極的に進めているともいえるでしょう。
「考える」こと以外に、人間にはもっと大事な能力があります。それは「思う」ことや「感じる」ことです。
私たちの原点である地球や、関係しあう他の命を「思う」こと。今そのものの自然を五感で「感じる」こと。考える道具としての言葉も、出発点はそこにあるはずだと思います。
人間が「考える」という業から脱却するとき、傲慢は謙虚に、増殖は抑制の方向に向きを変えていくことでしょう。
言葉の強さと怖さ
(言葉の発生)
野生の生物も鳴き声という言葉を持っています。
人間の言葉も、仲間に危険を伝えたりすることから始まったのでしょう。
言葉は生物のコミュニケーションの方法として、もっとも効果的で強力なものに違いありません。
やがて、人間の言葉は「伝える」機能から「推論する」機能へと進化していきました。
原始の時代に、獲物を観察し、その行動を予測して罠を仕掛けたことが出発点かもしれません。
推論は科学の基礎となり、人類(だけ)の進歩と発展に間違いなく役に立ったといえるでしょう。
しかし、言葉によって失われたものも多いに違いありません。
(言葉の系統)
言葉は2系統に分かれたと思います。
ひとつは推論=論理の系統へ。二つ目は伝える=叙述の系統へ。
前者の典型は科学であり、後者の典型は文学でしょう。
それぞれはお互いに浸透しあいながら、人間の生活や文化を形成してきました。
論理の系統は、抽象性、運動性=ダイナミズムが本質でしょう。
叙述の系統は、具体性、自然性、感受性、豊かさ=多様性が本質でしょう。
ロゴスとパトス、思想と情念などあらゆるもので対比的に用いられてきました。
(言葉の強さ)
コミュニケーションの道具として発生したと思われる言葉ですが、
やがて、言葉の持つ論理性と抽象性により、言葉が自ら新しい言葉を産みだしていきました。
ひいては、私たちの存在そのものが言葉(思想)であるという段階まで進化?してしまいました。
今こうして考えるのも書いているのも言葉によってです。
私たちのほとんどは、言葉なしでは生きていけないと感じています。
(言葉の構造)
言葉は論理の構造を手に入れることにより、自立的な生き物になった感があります。論理の性質とは次のようなことでしょう。
・区別する
→多様な事象を類似なものどうしでまとめる(観察)
まとめたものを共通概念で定義する(ルール)
・予測する
→観察事項とルールから予測ができる・応用する
→予測から、望む結果を生じさせる手段を導き出すことができる(言葉と行動)
決断とは、ひとつを選ぶことであり、反対から言えばそれ以外を捨てることです。決断とは、未来の成果が大きいものを選ぶことです。言葉=論理には、未来を予測する機能があるので、決断には最適の道具です。
決断があって行動があるから「言葉→行動→変化→進歩」の大きな流れが生じます。
(言葉の怖さ)
言葉の怖さは、以下の例で理解することができるでしょう。明治の頃、東大生藤村操(みさお)は言葉で考えぬいた結果「この人生に意味無し。故に死を選ぶ」と華厳の滝から身を投げました。
燃えさかる生の情熱が、言葉により生そのものを破壊してしまったといえます。(恋愛の悩みもあったらしい)
だれもが忌避する殺戮や破壊すら、言葉を重ねていくうちに正当化されていきます。そして、現在に至るまでたえまなく繰り返される戦争。
私たちは、「言葉の迷路」にはまりこんではいないでしょうか。
(言葉の自立性)
言葉(論理)は永遠に繰り返される推論です。
推論ですから、さまざまな解釈が成り立ちます。
自分に都合の良い推論も自由です(ソフィスト)。
相手を負かすために反対の推論も成り立ちます(逆も又真なり)。
また、論理は、結果にあまり縛られません。
なぜなら、論理は、その結果をさらに観察事項として取り込み、推論の道具として動き続けるからです。
推論→行動→犠牲→反省→推論・・・
つまり犠牲は、論理の必要条件であり、次の推論のためにあり続ける構造なのです。
自立性を持った言葉は生き物のように増殖していきます。
犠牲よりも推論の動きを止めたくない。
つまり言葉とは、動き続けることこそが何よりも重大なことなのです。
政治や経済、科学はその意味で言葉そのものといえるのではないでしょうか。
大きな問題は、「犠牲」があまりにも抽象化され、大小強弱の感覚が麻痺してしまったことです。
(言葉の出発点)
いったい言葉はどこから生まれたのでしょう。
生まれたての言葉は生命力にあふれていたに違いありません。きっと肉体や五感と一体のものであったことでしょう。
それはクジラが水中で交わす音波であり、生き物たちの咆哮であり、ネアンデルタール人の「歌」であったことでしょう。
そして言葉は一人歩きを始めました。。。ホモ・サピエンスの脳を利用して。言語生物のように。
やがて「肉体」と「言葉」に、主従の逆転が生じていきました。
(言葉をただすもの)
言葉の「主人」はだれなのでしょうか?際限のない言葉、情報の氾濫。。。
言葉の主人は「自然」なのでしょうか、「肉体」なのでしょうか、「心」なのでしょうか。
だれにも止められず、ただ「出力」し続けることだけが価値となっていく言葉。
故郷から遠く離れてしまった言葉。今や、言葉はその「親」を自ら知ることはできません。
(言葉を超えるもの)
私たちに残された唯一言葉を超えるもの。言葉をそこから出発させる力のあるもの。
それはきっと「アート」だと思います。
あらゆる言葉に対してアートは、自らを通して、あるいは言葉を借りてこう問います。
「それは美しいことか?」
「それは善きことか?」
※『悪魔の辞典』はビアスではありません。ネット上の後藤待子さん作『悪魔の辞典』より引用させていただきました。