「都市を滅ぼせ」という本

 昨日に引き続き、倉本聰『ヒトに問う』からです。その中に『都市を滅ぼせ』というとても衝撃的な本が引用されていました。一読の価値ありと思います。

 多くの人が都市にあこがれ、都市に住み、さらなる大都市を求めていきます。

 それが文明であるように錯覚しています。

 都市と田舎(地方)が相互に関連しあう「環境生態」の由々しき変化には、だれも思いをいたすことはありません。

 倉本聰さんは著書『ヒトに問う』で、衝撃的なタイトルである『都市を滅ぼせ』という本を引用しました。

 その理由とはこういうことでしょう。

 「磁石に吸い付く鉄粉のように、人々は都市に集中し、いつのまにか都市自体が一つの巨大な生物になってしまった」

 「その都市が必要とし、地方に産んだのが原発である」

 都市に住む一人一人に何ら法的責任などはありません。

 しかし、都市という巨大貪欲な生き物の細胞となっている私たちの「無意識の罪」について、意識を向けることは大事なことと思います。

倉本聰『ヒトに問う』より

「その9 古里の情景より」

 『都市を滅ぼせ』 という一冊の本がある。

 大正九年生まれの岐阜の老農民中島正氏が、一九九四年に顕した名著である。(発行所 舞字社、発売元 星雲社)

 この書の中で中島氏は、以下の如き論を展開する。

 そもそも都市はそれ自体、非自給的であり、非生産的である。都市が便利と贅沢と安逸を追求するためには、必ず浪費と破壊と汚染を重ねなければならず、それが人類と地球にとって恐るべき破局をもたらすこととなる。

 都市は、非自給的、非生産的なるが故に、他からあらゆる物資を奪ってこなければ、その機能も活動も維持することができない。

 そこで都市は、奪うことにおいて必ず他を窮地に陥れ、人類と地球に重大な障害を及ぼす。

 一見、過激に思えるだろうが実に何とも正論である。

 そして氏はこの証左として、都市の犯している九つの悪を列挙してみせる。

第一の悪・森林の破壊

 都市は初めに森林を破壊してつくられた。
 いかなる都市もその地盤は必ず曾ては森林であった筈の大地である。
 都市は自らの誕生のために緑を消滅させたが、にもかかわらず緑によってつくられる酸素を必要とし、他地域の緑をアテにして辛うじてその機能や生命を維持している。

第二の悪・農地の収奪

 都市はほとんど平野部の最も肥沃な土地を選んでつくられ、それは農地として活用できる言わば「可耕地」 であるはずである。
 人は可耕地である土地を略奪して都市化をすすめており、それは森林同様、都市人を含む、人の生命の糧を作る大切な場であることを忘れている。

第三の悪・大地のコンクリー卜化

 奪った農地は、都市の便益のためにたいていコンクリートで蓋をするのであるが、これで永久に大地の機能は失われる。
 大地の機能よろずの生物は母なる大地から生まれ大地のめぐみを受けてこの地上に育つ。
 降る雨は適度に土中に吸収され、井戸水や谷水の源泉となり、日照りのときも徐々に放出できるよう調節保管されている。
 さらに大地は地上の全ての汚物を浄化する作用を行う。
 その大地にコンクリートで蓋をしてしまえば、大地の機能は麻痺し、死滅する。
 大地の機能は自然循環作用の大動脈である。これを遮断すれば血流は止まり、地上は死の世界と化す。

第四の悪・農業人口の略奪

 都市は農業人口を奪うことによって膨張してきた。都市の拡大とは二次三次人口の増大ということであり、二次三次人口の増大とは農業人口の減少ということである。
 少ない農業人口で多くの不耕人口を養うためには、省力多収農業が必至であり、それは農薬化学肥料多投、農業機械、石油エネルギー依存の収奪汚染農業に帰結せざるを得ない。

第五の悪・農産物の搾取

 コンクリート上の都市は食料を自給することが不可能なので、一片の野菜、果物、穀物といえども農村から搾取することなしには生存不可能である。
 かくて都市は、昔は領主や地主を通じて農産物を強奪し、近くは食管法によって強制供出を図り、今は貨幣を媒体に農産物をまきあげる。
 都市は永久に、農産物を搾取し続けねばならない立場にある。
 しかも都市は、どうせ奪うなら一級品を奪えというわけで、領主や地主は、年貢には米を出せ、と命じた。
 ヒエやアワは百姓の食いものであると規定した。今の都市人が、ササニシキ、コシヒカリなら高く買おうというのと同じである。
 かくて続々と都市には農産物の一級品が集中し、田舎はその残り物で我慢している。

第六の悪・自然海岸の破壊と水産資源の濫費

 都市は自らの便利のためにコンクリートで湾岸を固め、そこへ大量の汚染水をたれ流しにして近海漁場を消滅させてしまった。
 もともと海の浄化力の最も大なのは自然海岸付近である。その場所をコンクリートで固めたり埋立投棄さえしなければ、わざわざ遠洋漁業に出て他国に迷惑をかけることはない。

第七の悪・エネルギー及び金属資源の浪費

 都市の機能は膨大なエネルギーや金属資源の浪費によって支えられている。それらはほとんど都市の賛沢と便利のために使われる。
 都市は、石油や金属資源が永久に無限に供給され続けるという仮定のもとに成り立っている。
 すさまじい資源の奪い合いと浪費は、貨幣経済における利潤の追求と相まって、この残り少ないものに先を争う、都市型競争意識のあらわれである。

第八の悪・酸素と水の過大消費

 便利な石油エネルギーも酸素がなかったら燃やすことができない。
 酸素は都市機能の活動を担う最も重要なカギを握っている。にも拘らず都市はそれを過大消費してとどまる所を知らない。
 酸素は刻々と減少しつつあり、やがては人類の生存そのものをおびやかすに至るであろう。
 水も、水洗便所や工業用水として、便利と金儲けのために都市は平然と浪費する。

第九の悪・電源及び水源獲得のための犠牲強要

 都市のエゴは電源や水源の獲得においてまさにムキ出しとなる。
 明治26年、東京市は自分たちさえ便利で快適な生活を送ることができれば、小河内村(当時神奈川県)がダムの底に沈んでも当然だと主張した。
 小河内村の百姓は先祖伝来の生活の場を追われた。

 この 「日蔭の村」 の悲劇は、そのまま原発の村の悲劇でもある。

 この、岐阜の農民である一老人の主張は、あたかも鉄槌を撃ち下ろすが如くまさに正鵠(せいこく)を射抜いている。

 氏の論はこの後、都市の収奪した物資の使用済み後の行方、即ち廃棄物、排泄物の他への転嫁という悪について更に厳しく列挙していく。

 いずれにしても都市の繁栄、国の繁栄というものの実態は、中島正氏のこの指摘に見事に集約されている。

 そしてその収奪された地の、なれの果てたる現実の姿が、この3月に僕の歩いた福島原発界隈の警戒区域、大熊、双葉、浪江等にまたがる人気のない死の町の姿である。

 戻りたくても戻れない。

 家があっても入れない、帰れない。

 その家は恐らく一組の夫婦が、一生かけてこつこつと金を貯め、或いは懸命のローンを組んで一生一度、只一回の夢を果たした財産にちがいない。もしかしたらその夢は、先代先々代、何代にもわたる夢だったかもしれない。それは単なる賠償金では償いきれない記憶・想い出・あらゆる物を含む、換金できない膨大な質量を持つ、感情の集積というものであろう。

 それが 「ふるさと」というものである。

 それを奪い取った戦犯の罪は、国家や会社や国策といった漠とした存在が負うべきものではない。それに加担した政治家、財界人、科学者等々が、個人名を明らかにして負うべきものである。

(2013年夏)

 私も実に正論だと思いました。

 田舎に住もうと都市に住もうと程度の差はあれ、無意識に自然環境に対する加害者となっている私たち一人一人。

 それは生き物としての宿命ではあります。

 しかし、「循環」というものが機能してさえいれば自然はつど回復し、多くの生き物が生命を持続していけます。

 「循環」できぬ世界への果てしなき劣化、それが私たちが無邪気に追い求めている「都市化」であるような気がします。

 私は最近、都市部のビルや密集する人の群れを見ると、以前とは比較にならないほど奇異感や空しさを感じるようになってきました。。。

  →倉本聰『ヒトに問う』より