一生を救った先生

 河合隼雄著『子どもと悪』を読みました。スラスラと読めたのは著名な人の実話を多く紹介しているからでしょう。本から印象に残ったエピソードを一つ。

 数ヶ月前に89才の老父とほぼ同世代の元教師の女先生二人を乗せて四人で紅葉ドライブに行ったのですが、後部座席では(当時女学生であった)女性同士で戦中社会のあれこれを話していました。

  ・学校に天皇陛下のご真影を奉納した「奉安殿」というご神殿があり拝礼させられたこと。

  ・住民の中に特高の配下の人たちがいて話を盗み聞きされているように思ったこと。
 自分がその頃に生きていたらどんなに息苦しいことだったろうと想像し、暗鬱とした気持ちになりました。

 本から引用するエピソードは、その時代の話です。 

 しかしそのような暗い時代であっても希望はあるのだと感じさせられたエピソードです。

 日高敏隆さんの一生を救ったすばらしい先生の話です。 

 文中の日高敏隆さんは日本の動物行動学の草分けとされる方であるそうです。

  →wikipedia「日高敏隆」

河合隼雄『子どもと悪』より

1.悪と創造「登校拒否」

 ・・・ところで、私がお会いした日高敏隆さんの小学生の頃の話は、まさに「登校拒否」の状態である。学校が「もう嫌になってね。断固いかなくなったんです」というのだから、文字どおりの登校拒否である。

 どうしてそうなったかを説明するためには、日高さんが子どもの頃に通っていた小学校の状況を少し述べねばならない。

 当時は軍閥の力がだんだん学校教育にも及んできて、なかでも日高さんの小学校はその最先端のようなところだった。

 「朝礼のときに、校長がこぶしを振り上げて列の中を歩いていく。だれかちょっとでもわき見をしたら、バーと殴り倒す。気持ちが悪くなって倒れでもしたら、蹴っ飛ばして列外にたたき出す」というような恐ろしい小学校なのだ。

 日高さんは病弱な子どもだから、このような軍国主義教育は、たまったものではない。

 その上、子どもの時から日高さんは昆虫に興味があった。現代ならともかく、当時だと「昆虫学で飯が食えるか!」というときである。

 親からは昆虫好きを否定される。学校は嫌だし、当時だと病弱なものはどうせ青年になっても辛いことばかりに違いない、というので、日高少年は真剣に自殺を考える。

 ところが、担任の先生が素晴らしかった。

 どうしてわかったのか、日高少年の自殺の意図を見抜き、両親に対して、子どもが死のうとまで思っているのだから、何とか好きなことをやらせるようにと、昆虫学をすることを承認させてしまう。そして、少年に対しては、昆虫学をはんとうに勉強するためには学校の他の科目を勉強する必要があると説得して、少年に登校をすすめる。

 ただ、この先生の偉かったところは、自分の学校が日高さんに合わないことを認め、他の小学校に転校をすすめ、そこで日高さんは登校をするようになる。

 担任の先生が自分の力によって何とかしようとばかり考えず、転校を考えたりするところは大したものだが、この点は省略して、この「登校拒否」を日高少年の自立の契機として考えてみてはどうであろうか。・・・

 同時代のシンドラー杉原 千畝(すぎはら ちうね)がしたことと同じ匂いを感じさせるエピソードでした。
 
 日高少年を救ったこの先生のように、世の中が全体主義に変わろうが、国に盲従することなく一人一人何らかの工夫や抵抗はできるはず。

 それを忘れずに「群れの中の顔なし」にならないようにしなくては。。。

 (と、こんなことまで考えてしまう世の中の風向きになってきましたよ。私の心配しすぎでしょうか?)