ギターがスポーツ?

 中沢新一著『野性の科学』をめくっていたら、深沢七郎さんのことが書かれていました。「へ〜〜、こんなふうに解釈できるのか」と頭のストレッチになりました。

(ギターを弾く在りし日の深沢七郎)

 深沢七郎さんは言うに及ばず、中沢新一さんも「オウム」の件などで何かと話題が多い方でした。

 『野性の科学』は挑戦的な面白い本です。

 『野性の思考』(レヴィ・ストロース)に出会って以来、人間科学の「野生化」が私の大きなテーマとなってきたが、その探求はいまや人間科学を超えて、科学一般の構造にも野生化が必要であると思うにいたった。・・・

  →『野性の思考』

 この本の各章の見出しがおもしろいです。

 いくつか抜粋してみますと、

 「数学と農業」「経済学とトポロジー」「民藝を初期化する」「闘うアニミズム」「ユングと曼荼羅」「Y字の秘法」・・・

 異質なもの同士を結びつける離れ業を見ているようです。

 特に経済学についての論考には共感しました。

 深沢七郎さんのお話は「二つの深沢七郎論」という章にあります。 

 神話や民話に人類や民族の根源的な意識構造がはめ込まれているように、一見すっとんきょうに思える深沢七郎さんの話にも、興味深いある構造がはめ込まれているというお話です。

 彼は、知的なものの働きと身体性や物質性とのくっつき方により、「上品/乱暴/ゲヒン」という三つの範疇で森羅万象を分類していたというのです。
 
 ユニークなスポーツ論ともいえそうです。私は面白く読みました。

中沢新一著『野性の科学』
「二つの深沢七郎論」より

デリケートな分類

 「未開人と農民は分類を好む」というのは、ある有名な人類学者のことばであるが、深沢七郎もまるでその未開人や農民のように、たえず世界を細かく分類しながら生きていたようなところがある。

 その分類の仕方はとてもデリケートで、しかも絶対的な正確さをもって遂行されていたので、そのやり方に慣れていない人は、目の前で手際よく世界が分類されていく様子を見ては、ただ呆然とするばかりだった。それはたとえばこんな風におこなわれる。

 武田泰淳先生のお宅へ行った時だった。

 「野球は好きですか?」

 ときかれた。

 「野球は嫌いです。上品すぎて」

 と、正直にお答えした。

 「そうかなあ、上品すぎるかなあ」

 ・・・

 「レスリングなどは好きですか?」

 と、奥さんがおっしゃった。

 「あれは、乱暴だから、嫌いです」

 と答えたが、好きなものを云わなければいけないと思ったので、

 「スポーツでは、やっぱり、ギターが好きです、ゲヒンでいいですね」

 と云うと、

 「スポーツですか? ギターは」

 と、ききかえされたので、まずいことを云っちやつたものだと後悔した。

(「言わなければよかったのに日記」)

 この会話には、深沢七郎の実践している世界の分類学の、重要な特徴がすべてしめされている。

<上品>
 野球は上品すぎて、好きになれない。野球はサッカーなどと違って、プレーヤー同士の身体は、いつも十分な距離をもって分離されている。ボールも直接足で蹴ったり、手でつかんだりするのでなく、バットで打ち、グローブでつかむ。野球ではすべての行為が、道具によって媒介されていて、身体の直接性はできるだけ上品に制御されている。だから、野球は上品すぎるのであり、ことばの制御に人生を賭けている文士や詩人などは好むかもしれないが、逆にそこが深沢七郎にはつまらないスポーツと思えるのである。

<乱暴>
 その逆にレスリングには媒介が少なすぎる。身体と身体が直接激突しあい、相撲の場合のような儀式性や形式性が乏しくて、身体の動き回れる範囲に加えられる制限が、極端に少ない。形式性が乏しいと、そこには身体を律する論理性が乏しいということになるし、あとで言うように音楽性が乏しいことになる。そんなやりかたでは、スポーツが限りなく喧嘩に近づいていってしまう。その意味で、レスリングは乱暴で、趣味に合わない、と言うのであろう。

<ゲヒン>
 だから「スポーツと言うならギター」なのである。ギターを弾く指の動きを、深沢七郎は「スポーツと同じ」と言っている。指が直接に弦を弾いて音を出すのがギターという楽器である。たしかにギター演奏をしている人は、地面を直接に蹴り立てて走る短距離走者や、リズムをつけて地面を蹴っていく三段跳びの選手や、ボールを直接に足で受けて思ったところに正確に蹴りだすサッカー選手の身体がしていることと同じことを、指先でやっている。物質世界(楽器のこと〉に直接身体の一部をこすりつけるギター演奏は、その意味では、まぎれもなくスポーツの仲間なのである。

 しかし、ギターは物質との間にたくさん媒介を挿入する野球のように「上品すぎない」し、媒介と形式性が乏しいレスリングのように乱暴でもなく、人の知性と身体の動きとが、ちょうどよい近さとバランスで媒介されながら触れ合っている。だからこそ、ギターは「ゲヒン」で、すばらしい楽器なのである。深沢七郎の「ゲヒン」という分類の範噂は、おそろしくデリケートで深い内容をもっている。

 う〜〜〜ん、スゴイ理屈というか、深い読みというか、よくここまで分析できるというか。。。

 ギターがスポーツなら、中沢新一さんの思考も「スポーツ」といえるかもしれません。

 なぜなら頭の中に流れる思考を、まるでピアノを弾くようにタイピングしているんですから。

 少し茶化してしまい申し訳ありませんでしたが、この本は(数学さえ含む)あらゆる科学に(根源的な)「人間性」を取り戻す必要があることを語っており、その原点にはレヴィ・ストロースの開拓した構造人類学的視点があります。

 レヴィ・ストロースは『悲しき熱帯』でこのような言葉を語っています。

 すなわち、感性の領域を理性の領域に、前者の特性を少しも損なうことなしに統合することを企てる、一種の「超理性論」である。

 中沢新一著『野性の科学』はとても冒険的で、かつあったかいところがある本です。