絵は本以上にものを言い

 若い頃から私はずっと思っていました。「一枚の絵は数十冊、いや数万冊の本に匹敵する」と。やはりそうなんだ、と思わせる文章に出会いました。
 私の運命だったのか、職歴多彩な人生を歩んできました。

 まったくジャンルの異なる職場を6種類遍歴しました。

 友人たちはそのつどたまげていました。(私も恥ずかしさ半分でしたが)

 最初の職場は電子機器やシステムのメンテナンスでしたが、5年続けた次の職場はなんと「画廊」でした。

 平たく言えば絵画販売です。

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 なぜ選んだかといえば、物心ついたときから「絵」の魅力を強く感じていたからです。

 有名な絵とかきれいな絵とかということではなく、「絵画」そのものが持つ情報の豊穣性を無意識に感じていたのです。

 たとえれば「一枚の絵は数十冊、いや数万冊の本に匹敵する」ということです。

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 その頃「荒川修作」の作品を知り衝撃を受け、画集を買い求めました。

 画集を読んでいて我が意を得たりと思いました。

 その本の解説にはこんなことが書いてあったのです。

 「ドイツの有名な物理学者に荒川修作の絵を観て長年の疑問が解け偉大な物理法則を発見した人がいる」

 (その物理学者とは、あのハイゼンベルグらしい)


(あの/眠っている心を/動かす/道徳性のある/ヴォリューム No.2 1974-77年 365×1097cm)

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 実は宮城県美術館にある巨大な作品もその類です。

 物理法則の数式を絵のように描いたとても大きなキャンバスに「false」(虚偽の)と書き殴っているのです。

 これはびっくりでした。

 まるで「曼荼羅」のように宇宙の全体を一枚の絵に表していたようで、たった一枚の絵が無限に近い情報を表しうることを感じたからです。
 
  →三鷹天命反転住宅

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 たぶんに文学的な絵画解釈であるかもしれません。

 しかし人類黎明期の洞窟壁画、入れ墨、土器の文様、曼荼羅、ひいては現代のロゴマークにいたるまで、言葉では伝えることができない圧倒的な情報を「絵画」(的なもの)は持っていると感じていたのです。

 今、山口昌男『道化の民俗学』という本を読んでいます。

 そのなかに、やはり!と思わせる文章が引用されていました。

「第2章 アルレッキーノとヘルメス」より

 この日常言語と神話的思考のレヴェルにおける象徴を対比してバッハオーフェンは次のような含蓄の多い言葉を遺している。

 人間の言語は、死と生との交替が呼びさます豊富な予感と、アインゲヴァイデ(内心)がもつかのより高い希望とを、言語的に表現するためにはあまりに貧弱である。

 ただ象徴と、それと結びつく神話のみが、かかる崇高な要求を満たし得る。

 象徴は予感を呼びさますが、言語は、ただ説明し得るに過ぎない。

 象徴は人間精神の一切の琴線を同時にかきならすが、言語はただ一つの概念にのみ奉仕しなければならない。

 また、象徴は心の最も秘密な深所にまでその根を下すが、言語は軽やかなそよ風のごとく悟性の表面に触れる。

 前者は内部へ、後者は外部へと向う。

 象徴のみが、最も異なるものを一の統一的な全体的卵の像にまで結合することに成功した。

 言葉は無限のものを有限にし、象徴は、有限でしかも無限の土地に生成しつつある存在世界を超えて、精神を奮い立たす

 我々の問題にしているのは、そのような象徴の場が、いかにしてダイーモン=ヘルメスの周辺に形成されたかという点なのであり、人格神ヘルメスの説話は、そういったパターンを日常生活的思考の手の届くところに置き換えたものである。

 再びバッハオーフェンの言葉を借りるならば、

 神話は、象徴の解釈である。

 それは、象徴が己れのうちに統一的にもっているものを、外的に結合された一連の所作において展開する。

 ということなのである。

 言葉の限界、そして「象徴(絵画的なるもの)」の可能性、神話との関係性が述べられています。

 まさに嗅覚が最も原初的感覚であると同様に、知性においては「象徴(絵画的なるもの)」こそがもっとも原初的なるものであると直感しました。

 私たちが「生き物」として生き続けるためには原初的なるものを取り戻すことが必要に思えてきます。

 極端な表現ですが、

 「言葉は絵画に」「会話は音楽に」「視覚は嗅覚に」「論理は神話に」。。。

 原初的な感覚で感じる現代世界はどのようでしょうか?

 きっと文明のベールに隠された、いや隠してしまったグロテスクな実態を直感することができることでしょう。

  →犬の地図
  →もしも言葉が音楽だったなら