こんな友人がいたらいいな〜。私にとってそのひとりが茨木のり子さんです。彼女の詩のみならず詩評も温かき人間性を感じさせてくれます。
(挿絵:「倚りかからず」より)
気の合う友人がいるということは人生の宝物に違いありません。
その友人が直接会うことはできない作家や詩人ということもあります。
あるいはもうこの世にはいないということだって。
こちらから話かけられないもどかしさはあります。
でも、すぐそばにいる貴重な友人と想ってその方の文章に接すると、その方の表情やしぐさまでが行間に浮かんでくるのです。
茨木のり子さんの詩評『詩のこころを読む』は、聡明で心優しい友が微笑みながら私に語りかけてくれるようです。
3.生きるじたばた
私が毎日じたばた暮らしているせいか、生きるというのは、なんてこう、じたばたしなくちゃならないのかと思います。
喜怒哀楽のさざなみ、大波にゆすぶられて、ひとびともまた、そのようです。
生きることに深く根ざしている詩も、とどのつまり、この章の中にすべて入ってしまうでしょう。
詩は感情の領分に属していて、感情の奥底から発したものでなければ他人の心に達することはできません。
どんなに上手にソツなく作られていても「死んでいる詩」というのがあって、無残な屍をさらすのは、感情の耕しかたがたりず、生きた花を咲かせられなかったためでしょう。
感情は軽視されがちで「感情的な人」と言われればけなされたようでおもしろくなく、「理性的な人」と言われればほめられたと思ってしまうのも、理智のほうが上等という意識があるためです。
けれど高度の数学や物理の発見は、しばしば直観によるといわれ、実証もされています。
もっともボヤツとしていて、突如、霊感によってひらめいたというのではなく、理づめで追っていって迷路をぐるぐる廻るような苦しみの果で、或る日成る時、直観によって飛躍できたということでしょう。
科学的なことはてんで駄目ですが、しかしこういう瞬間のことは十分想像でき、そうだろうなと思います。
感性といい、理性といっても、右折左折の交通標識のように、はっきり二分されるものではないようです。
私の好きな詩は、私の感情と理智を同時に満足させてくれるからです。
(岸田衿子:劇作家岸田国士の長女として東京府(現・東京都杉並区)に生まれる。妹は女優の岸田今日子。元夫は谷川俊太郎、田村隆一。従弟に俳優の岸田森がいる)
http://pds.exblog.jp/pds/1/201105/23/20/f0100920_2313474.jpg
ときどきとなえたくなる呪文の一つ。
大人も子供も、毎日毎日、時計のぜんまいを巻くように、ぎりぎり予定を巻きあげて日程を消化するのにせいいっぱい。
なぜ、こんなに忙しい思いをしなくちゃならないのか、これが生きることのすべてなのかしら?
ときどき頭が痛くなったりするのも、弱い頭をそんなに酷使してもらっちゃ困るという、頭脳のストライキです。
下痢するのは胃腸の、風邪ひくのはからだぜんたいのストライキ。
からだに関しては一人ひとりがそれぞれの経営者であり、労働者でもあって、歯車の一つが「もう厭!」と言えばちぐはぐになって、全体がダウンです。
休めということで、その言いぶんを聞いてやらなくてはなりません。
くるまはぐるま
くるわばくるえ
時にはそんなふうに自分に言いきかせ、解き放ってやることも必要でしょう。
言いきかせるまでもなく、この作者は「くるわばくるえ」を地でいっていて、まったく自由に生きています。
約束の時間、つまり人間のとりきめた時刻にあんまり従いませんし、待ちぼうけをくわされることもしばしば。
たまにきっかり会えると異変が起こるのでは……と思えるほどです。
一緒に旅をしてもゆったりしていて、指定券を買った列車に乗れそうになく、きちょうめんな私は心の中で「スケジュール、狂わば狂え」と叫び、野宿するつもりならあわてることはないのだと言いきかせていると、あわや、というところで乗れたりするのでした。
社会生活をするには、さまざまな約束を守ったほうが人に迷惑をかけず、すべてなめらかにゆくわけですが、ただそれだけのことにすぎません。
そしてこれができないと落伍者にされがちなので、みんななんとなくがんばるわけです。
同じ空気を吸いながら、まったく自分一人のペースで生き、人に何とおもわれようとかまわず、自分の歌しかうたわない岸田衿子の存在と詩は、思いがけない方角に、ぼっかり風穴あけるような、作用をはたしてくれています。
行のはじめはぜんぶ(くる)ではじまっていて、(くる)をくるくるまわしていたら詩ができてしまったらしく、ことばあそびからもいい詩が生まれる例の一つです。
昔のわらべうたや民謡がしばしばそうであったように。
茨木のり子さんの文章を読むと、柔らかい心のマッサージを受けているような、そんな癒やされる気持ちになっていきます。
そんな人こそ「親友」と呼べるのでしょう。
彼女の詩や文章に接するとき、そんな「親友」に自分もならなくては、と感じさせられることがしばしばです。
「詩のこころを読む」より
茨木のり子「詩のこころを読む」
便所掃除の詩(うた)
茨木のり子さんが好きな詩