究極のリ・サイクル

 ディストピアを描いた映画がユートピアに思えてしまった私はどこかおかしいのでしょう。。。

「ソイレント・グリーン」は、私が二十歳の時1973年に公開された映画である。

制作は「ミクロの決死圏」のリチャード・フライシャー監督、主演はチャールトン・ヘストンであった。

数年前もBSかスカパーで観た記憶があるが、再見した今回は印象がより深く、大いに考えさせられた。

近未来のディストピアを描いているのだが、見方を変えればある種のユートピアではないのかと?

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ソイレント・グリーン

2022年(この映画が制作された時から50年後)、ニューヨークは4千万人という過剰な人口を抱え貧富の二極化はすさまじかった。

人類の際限のない自然破壊により食料は逼迫し、人口のほとんどを占める貧窮民は、ソイレント・グリーンなるビスケットのような食料を配給されていた。

チャールトン・ヘストン扮する刑事である主人公も、権力側とはいえ実際の生活においては貧窮民の一人に過ぎなかった。

彼は捜査の特権をかさにきて、今や貴重品で禁制品となっている肉や野菜・果物を非合法にせしめるなど、すさんだ日々を送っていた。

そんな彼だが、こんな世界に対するやるせない思いと、少しばかりの正義感が残っていた。

そして、海中プランクトンから作っているとされる人類の主食「ソイレント・グリーン」のおぞましき正体をついに知ることになる。

そのきっかけをつくったのは、彼の同居人である元学者の老人であった。

この時代、口減らしのためすべての老人は自ら「ホーム」というモダンな姥捨て山に入ることを選んでいた。いや、選ばざるを得なかった。

この世のおぞましき真実と自身の死期を悟り「ホーム」に入所した彼は、即座に快適なベッドに横たえられ、全方位のスクリーンに映る大自然の映像と穏やかなクラシックの旋律に包まれながら、ほどなく来る安楽死を静かに待っていた。

老人がいないことに気づいた主人公はホームに彼を追い、職員を脅迫して禁断の臨終の場に立ち会い、老人の最後の言葉を聞いた。

老人は彼にヒントとなる言葉を残し真相究明を託した。

ソイレント・グリーンの製造工場に忍び込み真相を知った主人公は、製造企業および政府に雇われた殺し屋に狙われる。

殺し屋に撃たれ重傷を負った彼は、助けに来た上司にソイレント・グリーンの正体を皆に知らせ生産を阻止しろと、遺言のごとく訴える。

最後の言葉は「このままでは人間が家畜にされていく。。。」であった。

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映画はここで終わる。

これはディストピア映画として作られたことは疑いない。

当時はベトナム戦争の後遺症や急激な経済成長による環境破壊の爪痕が生々しく、人々は地球の未来にとても悲観的であった。(今の時代が鈍感すぎるのかもしれないが)

ところがこの映画を再見した私は、多くの人に叱られるかもしれないが、この作品はある意味ユートピア映画ではないのか、と感じてしまったのだ。

あえてネタバレ話を書くことになるが、人間が死んだ人間を食料にしていくことに「究極のリ・サイクル」というものを感じたのだ。

それは「究極」というより「極限」と言った方が適切かもしれないが。。。

考えてみれば人間以外の生命は植物であれ動物であれみな土や海に還り、自らが新しい生命を育む栄養体に変じている。

しかし、人間だけは火葬などによりそのリ・サイクルの環を拒絶しているのだ。

ところがそれとは反対に、献体や臓器移植という己のリ・サイクルを望む人も多い。

さらに死を伴う自己犠牲というものは、人類社会では大昔から現在に至るまで至高の徳とみなされてきた。

これらは自己を滅して次の世代につなげようとする、ある意味リ・サイクルの思想とはいえないだろうか?

ドストエフスキーは畢生の大作「カラマーゾフの兄弟」の巻頭言に聖書の一句を記した。

「一粒の麦 地に落ちて死なずんば ただ一粒にてあろう。死なばこそ あまたの実を結ぶのだ」

「死して名を残す」を格言とするわれわれ人間は、何らかの形で次世代にバトンを渡し、そのことで永遠に生き続けたいという本能もあるに違いない。

しかし、足跡を残すなど論外で、ひたすら日々の生活を生きるだけに必死な人間こそ、いつの世でも圧倒的多数なのだ。

だから、己の足跡を後生に残せる人間は幸せである。

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人間が持つもうひとつの本能は「死への恐怖」である。

それは臨終に至る「苦痛」と、すべてが虚無に帰することの「絶望感」から成る。

しかし、必ず死すべき人間ではあるが、その死が後に何かしらの恩恵を与えうると確信できるなら、死の恐怖は大いに減じるのではないだろうか。

というより、臨終が人生最大の喜びになるかもしれない。

この考えを延長していくと、自らの肉体が他者の生命をつなぐ糧になる、ということも荘厳なことに思えてしまうのだ。

等しくこのような喜びを与えることを、天は神はいや古代以来の人類社会は、なにゆえタブーとしたのであろうか。

映画の主人公の最後の言葉「このままでは人間が家畜にされていく。。。」にこそ、タブーの源があるのかもしれない。

もしかしたら、非合理なる「タブー」にこそ人間の知など超越した生命の叡智が宿り、われわれを救ってくれているのかもしれない。