もしも言葉が音楽だったなら、人はすぐに悟るでしょう。その音楽に真心がこもっているかいないかを。
今マスコミに登場するさまざまな政治家や評論家の話が音楽だったならいったいそれはどんな旋律なのでしょう?
もしかしたら騒音?雑音?
「歌うネアンデルタール」という本を以前買いましたが、まだ読み終わっていません。でもこのタイトルだけで何かわかった気になります。
これはテレビで知った話なのですが、ネアンデルタール人のコミュニケーションは歌、ハミングだったそうです。
それは口蓋の構造により私たちホモサピエンスのような言葉を話すことができなかったという理由のようです。
その違いがネアンデルタール人が滅びホモサピエンスが栄える大きな理由になったそうです。
ホモサピエンスはことばを単なる伝達から予測、計画のツールとして進化させていき戦闘的能力が発達したからとのことでした。
しかし、ネアンデルタール人の化石が見つかった場所で一緒に花の化石も見つかったそうです。それは死者へのたむけの花だったのではと考えられています。
そして今、ネアンデルタール人の生活はとても優しさに満ちあふれていたのではと想定する学者が多いということでした。まるでアメリカやオーストラリア、北海道の先住民と開拓者の話を彷彿とさせます。
私たちの最大のツールであり武器である言語、そのエッセンスは「論理」であり、その果実は「科学技術」ともいえるでしょう。
しかし、その言葉が私たちの感性や感情を離れて一人歩きし、だれもそのことを不安に思わなくなってしまっています。
百戦錬磨ならぬ「百戦論魔」のような論理的性能と競争性能が高い人間が高学歴やおきまりのコースを選び、たどって社会のエリートとして物事を進めたり、隙のない論理で発信していく。
ほとんどの人は自らの頭で考え直すことを怠り、逆に歯切れ良く論理明晰に見える人にあこがれたりしています。
このようなことを最近の原発問題で感じてきました。特に経済評論家や学者と呼ばれる人たちに対して。
でも、それらの人の感情的原点はどこにあるのでしょう?
人として、地球の中に共生する生き物としての観点はあるのでしょうか。
もしあったとしたらそれと相反する言葉を発しなければいけない社会やしごとには一体どんな問題があるのでしょう。
シェークスピアは「ベニスの商人」の中でシャイロックの娘婿ロレンゾに次のようなセリフを話させています。
「心に音楽を持たぬ人間、美しい音楽の調和にもたえて心を動かさぬ人間、きっとそれは謀反、策謀、略奪などをやりかねぬ人間なのだ」