この世は巡礼である

 私が山本周五郎を読み始めたのは五十を過ぎてからです。
それまでは道徳的でまじめな作家という先入観をもっていましたが、実際にはまさにその反対、破天荒な生いたちと凄絶な作家人生を歩んだ方と知りました。
 私が一番好きな彼の作品は「青べか物語」。3回読みました。良い本は何度読んでもおもしろい。多感な青春時代の数年を過ごした浦安での実話を元にした短編集です。「青べか」というのは彼がだまされて買ったおんぼろ小舟のことです。

 この本には、彼が生涯座右の銘とした言葉が記されています。ストリンドベリという今では読まれることもなく私も知らない作家の言葉です。その後の苦行ともいえる彼の作家生活を予見し、それを引き受ける覚悟をしたような言葉でした。

ストリンドベリ
「苦しみつつ、なおはたらけ、安住を求めるな、この世は巡礼である」

 周五郎の本を読んでいると、読み飛ばすのがもったいなくて書き留めておきたくなる言葉と多く出会います。手帳に書き留めたものはこんな言葉です。

「青べか物語」より
「すさんだ生活をして来た者の中には案外『世間知らず』な人間がいるものである。食う心配ばかりして育って来たのに、少しも貧乏というものを知らない人間(というのは、貧しい人たちに対して同情のない、独善家という意味である)が、かなり多いのと同じように」

「さぶ」より
「小さいじぶんおふくろにぶんなぐられたことがある。弟のやつがいたづらをして、それをおれがしたことだと思ってぶった。おら泣きながらおれのしたことじゃねえって云って、それから弟のしたことだとわかったとき、おふくろは平気な顔で云った。それじゃお前はこれまでにぶたれるようなことは一度もしなかったっていうのかい、ってさ」

「ちくしょう谷」より
「人間のしたことは善悪にかかわらず、たいていいつかはあらわれるものだ。世の中のことはながい眼で見ていると、ふしぎなくらい公平に配分が保たれていくようだ」

「肝心なことは事が失敗するかしないかではなく、現にあなたがそれをなすっている、ということです」

「樅の木は残った」より
原田甲斐「意地や面目を立てとおすことはいさましい。人の眼にも壮烈に見えるだろう、しかし、侍の本分というものは『堪忍』や『辛抱』の中にある。生きられる限り生きて御奉公をすることだ、およそ人間の生き方とはそういうものだ、いつの世でも、しんじつ国家を支え護り立てているのは、こういう堪忍や辛抱、人の目につかず名もあらわれないところに働いているのだ。」

山本周五郎自身の言葉
彼は文学の目的を「慶長五年(関ヶ原合戦)大坂城でどのようなことがあったかではなく、そのとき道修町のある商家の丁稚がどのような悲しい思いをしたか、またその悲しい思いの中からその丁稚は何をしようとしたか、それを追求することにある」と述べている。

 彼の作品の多くは有名な映画作品となっており、これもそうだったのかと思う作品が結構あります。「椿三十郎」「赤ひげ」「どですかでん」「雨あがる」「どら平太」「五辯の椿」、私は「季節のない街」を原作とした黒澤明監督の「どですかでん」が好きですね。