66年前の昨日は広島へ、同じ年の明後日は長崎へ原爆が落とされました。昨晩NHKの特番「ヒロシマの黒い太陽」でマンハッタン計画の発端から原爆投下、その後の広島長崎について貴重な映像を見ました。その中にとても気になる言葉が出てきたんです。
広島に原爆を投下したB29の名前は機長の母親の名「エノラ・ゲイ」これは有名です。このとき撮影のため一緒に飛んだB29には「Necessary Evil(必要悪)」という名が付けられていたそうです。意味深長です。
「必要悪」・・・原爆も原発も戦争もすべて「必要悪」なんでしょうか?この言葉ひとつだけで上は決断し、下々は納得させられているんではないでしょうか。
昔も今も、識者とよばれる人々にこの「必要悪」的発想が強いように思います。ドストエフスキーの「罪と罰」では多数の幸せのためなら許されると金貸しの老婆を殺すラスコーリニコフ、「カラマーゾフの兄弟」では「大審問官」の話を語るイワン、スターウォーズではダース・ベイダー、彼らもすべて思慮深いインテリでした。小説や映画とはいえ、みな現実世界の影法師です。
そしてこんな記事も『【新聞チェック】″原爆の日″に全く触れなかった産経、特集満載の朝日・毎日とは対照的』
大手マスコミのこのような扱いの背景には、われわれ自身の感情風化があるのだと思います。感情の原点となるイメージが希薄となり、五感ではなく言葉の強さや整合性にだけ反応しやすくなってきていると思うのです。
もうひとつは、ものを考える目線というものが、猫も杓子も「上から目線」になってきている気がします。Google Earthで鳥のように俯瞰するように、あるいは飛行機のファーストクラスに乗って下界を見るように、多くの人がそんな目線を当たり前に思う傾向が強くなってきたように思います。孫正義さんもtwitterでこうつぶやいていました。
私は、上から目線の評論家をあまり高く評価しない。何故なら、彼等は高邁な理屈を唱える割に何等行動を起こさないから。「言うは易く、行うは難し。」そんなに偉そうに言うならやってみろと言いたい。私は突き進む。ボロボロになっても。twitter本文はこちら
さて、人は会社で義務があり、社会でも義務がある、そして毎年今は、人間の義務として、原爆とか戦争について日ごろ見ない本とか記事とか番組を意志をもって見る義務があると思うんですよ。
私は「娘よ、ここが長崎です」を再読しました。長崎で被爆しながらも救護活動を行った永井隆博士の遺児筒井茅乃(かやの)さんが1985年に著した本です。
娘の和子は中学生になっていました。わたしは、この機会に、ぜひ娘に、ここ長崎に原子爆弾がおとされたことをつたえておきたいと思っていました。
(中略)
いままで、わたしは、自分たちが体験した「原爆が長崎におとされた『あの日』」いらいのことを、娘にことさらいうことはありませんでした。
むしろ、ふれたくないものとして、さけていたのかもしれません。またいおうとしても、なにからいってよいか、まだ幼かった娘をまえにして、ことばでいいあらわせなかったのです。
2007.7.26「新装版によせて」より
筒井茅乃
「今も世界各地で苦しんでいる人たちがいます。途方にくれたようすの子どものすがたをニュースで見聞きするたびに、わたしがあの浦上の荒野(あれの)でくらした日々が重なります・・・争いは、話しあいで解決しよう、暴力では解決はのぞめないのだからとわかるのが、体験した人だけだというのであれば、なんと悲しいことでしょうか。」
亡くなる直前の永井博士と茅乃さん、兄(故人)の写真です。私たちは、このような写真を見て感じる、何かもやもやっとした人間的感情から考えを始めるべきだと私は思うのです。