昨日は涼しく今日はまた暑く、寒暖の差が激しい季節の変わりめです。山登りにはうってつけの秋に入りました。「人生は重荷を背負って山道を歩むがごとし」のように、人生はよく山登りにたとえられます。私は今、このたとえがとてもしっくりくるようになりました。
私は若い頃山登りが好きで、けっこうあちこち、いや気に入った山をあちこちから登っていました。
自然に癒されながら、ときには一人で、ときには夜に、臆病たかりの自分を鍛えたいなと思ってちょっとした冒険行もしていました。
今は股関節がうまくなくて歩くのも少し不自由なものですから、山登りに代えて自転車のり(せいぜい片道15,6キロくらい)をときどきするぐらいです。
さて、本題。なぜ「人生は登山なり」と思うのがしっくりくるのか考えてみました。
実は昨日、みごとな黄金色に変わった田んぼを見て「あ〜実に美しいな〜。なんて地球は豊かなすばらしい場所なんだろう!」としみじみ思ったのです。
(曇り空、しかも夕方だったので少し暗いですがそれでもキレイ)
そして、生を受けてやがて死んでいくこの世の一生とは「神がくれた旅行」のようなものではないだろうか、それは私たち人間だけでなくあらゆる生命にとっても同じに違いないと思えてきたのです。
同時に、この地球を壊し汚し続けているのは私たち人間だけだ。いったいどうしてなんだろう?と青臭い疑問にも本気でかられてきました。
「もし人生が登山だとしたら」
もし人生が登山だとしたら、人はいったいどういう気持ちで人生という山を登るのでしょうか?
私は思います。「すべての生き物はたえまなく順番に、この山に入り、そして下りていく。生を受けたときに登りはじめ、この世を去るときに山を下りる。ずっと過去からずっと未来までその繰り返し。どんな生き物も等しく。旅の長さはそれぞれ違うけれども道のりは同じ」
もし世界中の同じ年代を山登りのパーティーと考えれば、そのパーティーは絶対に山を汚すことなどしないはずです。
なぜなら、前のパーティーもそうしてくれたし、後にもそうしないと迷惑がかかると思うからです。
山という自然が壊れやすく、元に戻るまで長い時間がかかるのだということを知らずに登山することは、はじめから誰も許さないことでしょう。
このような山登りでは、人間の科学技術の進歩のためだとか、自分たちの世代のより一層の満腹のためだとか言って、その危険な副産物を埋めたり、自然に対してさまざまないたずらをするなど、誰もゆるさないことでしょう。
なぜ、このような気持ちになれないのか考えてみました。
ひとつは、世代ごとの登山パーティーとは思っていないからだと思います。
過去から未来へ連綿と、世代の異なる他人の人生が連なり続けている。自らをその紐の一部のように意識し、単体の寿命を意識することなく、死ぬまで死ぬことを忘れようとしているからです。それが美徳のように言われることも多いからです。
このような認識にあっては、次の世代のために山を汚さないという意識は生まれません。なにせ世代の区切りが見えないのですから。
人類という群れの一人としてではなく、たった一個の生き物だとして自分を考えてみたら、かけがえのないたった一回の「この世」という旅において、どんなことがしてよくて、どんなことがしてはいけないものでしょうか。
山に登ったことのある人、そこで「自然」に感動したり癒されたりしたことのある人なら、何も言わなくても分かるはずだと思います。
私たちは主役ではない。すばらしい旅をさせてもらっているたった7,80年くらいしかここにいられない旅人にすぎないのだ、と。