学問する順番

 高校生だったある日、職員室で先生たちがこんな議論をしていた光景を思い出しました。「一番根源的な教科は何だ?」言い出したのは地学の先生で、その先生と物理、数学の先生がけっこうやり合っていた記憶があります。
 変な議論かもしれませんが、今思うと、どれが根源的かどうかは別としても「学問する順番」ってあるんじゃないかと思えてきたんです。

 生まれたばかりの子供に最初から算数は教えないし、会社に入ってからも、いろんな仕事を順番に習っていきます。これをマスターしないで次に進んじゃ危険だよ、という了解があると思うんです。

 高等学問についても、社会に出てから「危険な秀才」として人間兵器に変身しないためには、やはり「学問する順番」ってあるべきと思うんです。

 まず「自然学(地学)」次に「生物学」そして「人間学(文学、芸術)」、ここまできてから「理工学」系のコースか「政治学」「経済学」のコースかを選んで専門性を究めていけばよいと思うんです。(教養課程の充実ということになるのかな?形式的じゃないやり方でね)

 良い点数とるとかではなくて、自然や生き物に対する理解と愛情をまず育むべきと思うんです。そういう人だけが人間社会に大きな影響を与えうる次の学問に進める。このへんが今弱っているんじゃないですか。

 そして、次の学問に進んでからも、最初に学んだ学問の領域があって次の学問の領域が成り立つんだということをよく認識し、犯さないようにすることが必要だと思うんです。

 今は物理科学や政治学、経済学なんかが、母体である人間、生物、地球のレベルで問題ばっかし起こしているんですから。戦争、原爆、原発なんかその代表的な迷惑三兄弟ですよ。

 坂口安吾はこんな事書いてました。

「悪妻論」より

 才媛といふタイプがある。数学ができるのだか、語学ができるのだか、物理学ができるのだか知らないが、人間性といふものへの省察に就てはゼロなのだ。

 つまり学問はあるかも知れぬが、知性がゼロだ。人間性の省察こそ、真実の教養のもとであり、この知性をもたぬ才媛は野蛮人、原始人、非文化人と異らぬ。

 こんなことをなぜ思い出したのかな?

 たぶん原発事故以来、テレビや本で見たり聞いたりする、いわゆる「優秀な人(秀才)」の発言とか考え方に違和感というより「危機感」を感じることが多いからだと思うんです。

 最近有名なのがこれ。佐賀県知事がtwitterお気に入りに登録してたやつです。「世界中の数百の空母や潜水艦に原子炉のっけまくってるのに、地震ごときを理由に原子力を否定するなんて、いったいどれだけ軟弱なんだ。そんな女々しい奴は、豆腐の角に頭をぶつけて死んでしまえ。」

 元敦賀市長の講演(1980年代半ば)ではこんな発言も。「その代わりに、五十年後に生まれた子供が全部カタワになるやら、それはわかりませんよ。わかりませんけど、今の段階では(原発を)おやりになった方がよいのではなかろうか・・・・」

 こんなの枚挙にいとまがないんですけど、もっと怖いのはこんなことです。最近読んだ本『ツナミの小形而上学』より引用します。

 「・・私たちを脅かす巨大な機械を操作する人々が、有能かつ誠実であるということのほうがはるかに深刻なのだ。そのような人々は自分たちが非難されていることを理解できない」

 つまり、原爆も原発も、作る人、落とす人、使う人だれでもみんな確信犯(良いと思ってやっている)。どこにも「悪人」はいないんです。
 
 自分がやっていることが、別な領域にどんな結果をもたらすか、同時代にも、未来にも。そんな想像力がないのは、やはり「学問する順番」が狂ってるからだと私は思うんですがね。

 私たちが小学校の頃、人間性がいまいちで、理数系だけ出来る子は「はかせ、はかせ」って、ガキ大将からいじめられたもんですが・・・。かえって「なにくそ」と思って「危険な秀才」になった人が多いんだろうな・・・皆さんどう思います?