揺れる〜〜ゲンパツ!

 ゆうべは我が町の「町議会だより」を読んで、嬉しくて涙が出そうになりました。そうしたら今朝の全国紙の朝刊を見て、今度はめちゃくちゃ頭に来ました!あの「ゲンパツオバケ」の話です。
 昨年末にわたしの住む宮城県涌谷町で町長選挙がありました。

 原発問題についての方針を明らかにする人は一人だけでした。脱原発の立場だったその候補者は最下位で落選しました。

 当選した町長は、もしかして「経済発展(だけ)大好き人間」では?と内心不安に思っていました。

 そうであれば女川原発再稼働を容認するに違いないからです。

 涌谷町は女川原発30キロ圏内にある町なのです。

 そうしたら嬉しい記事が出てるじゃありませんか!


 (問)女川原発を廃炉にするよう各方面に要請すべきと思うが、町長の考えを問う。

 (町長)安全神話が崩れた以上、廃炉に向けた考え方で対応したい。代替エネルギーも考えなければならない。

 正直涙が出そうでした。

 女川町隣の石巻市長は昨年4月か5月には原発再稼働促進を表明し、宮城県知事も3.11の数日前には喜色満面で女川原発のMOX燃料運転了承の調印をしたばかりで、どうも脱原発派には思えません。

 涌谷町隣の、やはり女川原発30キロ圏内にある美里町も、町長が再稼働反対をすでに表明していましたから、これは大きな砦になりそうだ!と喜んだのです。

 なにせ、一回再稼働してしまえば、あとは寿命とされる年月まで運転停止をあきらめねばならないでしょうから。今が大事なときと思っています。

 そうしたら今朝のこんな記事です!

 自宅トイレで叫びました!「うわっ!このやろう。。。」

朝日新聞2012年2月16日

原発再稼働、民主が容認へ 夏の電力不足を懸念

 民主党は15日、定期点検で停止中の原発の再稼働を容認する方向で調整を始めた。夏場に電力不足になるとの予想に加え、イランからの原油調達の削減などでエネルギー不足への懸念が広がる中、夏前の再稼働をめざす野田内閣を後押しする狙いがある。

 党エネルギープロジェクトチーム(PT)は3月をめどに、ストレステスト(耐性評価)の厳格化や地元同意などを条件として、「原発再稼働なしには今夏、電力不足に陥る可能性がある」との趣旨の報告書をまとめる方針。前原誠司政調会長ら党幹部は再稼働を唱えており、政府が夏までに策定するエネルギー基本計画への反映を目指す。

 PTは15日の会合で、原子力安全・保安院が関西電力大飯原発3、4号機(福井県おおい町)のストレステストを「妥当」とした審査書について協議。経団連など経済3団体幹部から、夏場の電力不足や原油高騰への懸念から原発の再稼働を強く要請された。

 これに対し、座長の大畠章宏元経済産業相は「今冬は国民の協力と電力会社の頑張りでしのげそうだが、今夏はどうなるのか確証が持てない」と述べ、再稼働を容認せざるを得ないとの認識を示した。

 一方、自民党の総合エネルギー政策特命委員会(委員長・山本一太参院議員)は15日にまとめた中間報告で、原発を推進してきた党の方針を陳謝。将来の原発政策については、今後10年間で「中長期的な観点から結論を出す」として判断を先送りした。

 放射能についてあまりにも危機意識、罪悪感が貧弱だ!というより「そんなものまったくなくて当然の確信犯」ではないでしょうか?

 なぜ?「代官」も「商人」も「学者」も「太鼓持ち」もすべて無意識の「金の奴隷」だからです。

 「政治の専門馬鹿」「経済の専門馬鹿」「物理の専門馬鹿」「詭弁の専門馬鹿」がこの国を左右しているようです。

 それぞれ、「ブレーキは踏まなくても許される」という免罪符を持っていると思っています。

 政治はあてにならない、というより怖い。政治と経済に関係する人はみな無意識に「金の力」に脅かされ、そしてあこがれ、いつか「ダースベーダ」になっていきます。

 いったい政治家は「国」を守るというが、それなら放射能の恐怖と惨禍から「国民」を守るべきではないでしょうか。

 それは、絶対悪の原発でお湯を沸かすのをやめさえすればいいのです。

私の「原発絶対悪」論

 勝手だが、悪には「相対悪」と「絶対悪」があると思っている。

 石炭は石油より有害なガスが出るし燃焼効率が悪いというように、比較して悪いのが「相対悪」だ。それは無限に「悪さ」のレベルがありうる。

 これに対して「絶対悪」はそもそも何とも比較はできない。何もないか、すべてがパーになるかだ。

 だから、何かと比べて効率がいいとか悪いとか比べられるしろものではないはずだ。

 原発は一度事故が起こればすべてがパーだ。

 え〜、スリーマイルだってチェルノブイリだってフクシマだってみんな規模とか違うでしょう?

 いや、原発で人工的に生成されたプルトニウムなどの放射性物質は永遠(10万年)に存在し続け無毒化は決してできない。

 地球、自然、生命にとって悪以外のものでは決してない物質が、未来永劫存在し続ける、その悪魔をこの世に拡散させてしまったことが「すべてがパー」ということなのだ。

 ほんの数グラムで何万人もの致死量となるこれらの放射性物質という悪魔の物質は、第二次世界大戦の原爆から現在に至るまで、なんと25万トンも生まれてしまったとのことだ。 

 爆発しなくても生まれ続けるそれらの悪魔は、どこにも牢獄はなく、黄色の容器に密閉され、各原発の施設内、海を往き来する船、陸を走る列車やトラックに積まれて移動をしている。一部は六ヶ所村の貯蔵施設へ行く。

 世界で唯一最終処分場として稼働したのがフィンランドの「オンカロ」だ。しかし、それを題材にした映画で関係者の話を聞けば、この最終処分場ですら決して安全ではないということがよくわかる。

 日々その悪魔は増え続けているのに、悪魔を封印する場所がないことを知っている人は少ない。知っていて知らないふりをしている人がエリートと言われる推進派の人々だ。

 「科学の進歩は止められない。できてしまったものは科学の力で解決していかねばならない。それを否定するのは人類の進歩を否定するのと同じだ」と吉本隆明や石原慎太郎が言っている。

 それなら、H・G・ウエルズの「モロー博士の島」のように生命科学を追究し、遺伝子操作で虎と人間の合いの子を創り出すのも、効率を追求するマッドサイエンティストが10本手のある人間を生み出すことになっても、それは科学の進歩として受容するというのだろうか?私たちにはブレーキを踏む自由はないというのだろうか?

 物理学が20世紀に大きい影響を与えたからかもしれないが、あまりにも「物理学(=科学と思っている)」に卑屈になっていると思う。

 少なくても「科学研究」と「科学技術」は分けるべきだ。

 原子力は研究はしてもいいが すでに生んでしまった悪魔の行き先こそ優先して研究すべきことである。

 ましてや、悪魔的一か八かの技術を、われわれの生活における「巨大な湯沸かし機」として使うべきものではない。

 その前に代わりに使えるものはたくさんある。

 石炭は古代の植物の堆積から生じ、石油は古代の恐竜の死骸から生じた。

 このように過去の生命の恵みが私たちのエネルギーとして役に立ってきた。

 私たちは、恵みの代わりに絶対悪を未来の子孫に残してしまうことになった。

 もうやらかしたんだからといって、これ以上、増やし続けるのだろうか?

 それなら人類とは古代の恐竜以下のモラルであるといっていい存在ではなかろうか。

もうひとつ書きます。
「学問する順番」より抜粋

 こんなの枚挙にいとまがないんですけど、もっと怖いのはこんなことです。最近読んだ本『ツナミの小形而上学』より引用します。

 「・・私たちを脅かす巨大な機械を操作する人々が、有能かつ誠実であるということのほうがはるかに深刻なのだ。そのような人々は自分たちが非難されていることを理解できない」

 つまり、原爆も原発も、作る人、落とす人、使う人だれでもみんな確信犯(良いと思ってやっている)。どこにも「悪人」はいないんです。