皆がいっせいに、「何でもいいから手しごとがしたい!」と答えました。被災地の仮設住宅で暮らすご婦人方に「今どんなことがしたいですか?」とラジオカーのアナウンサーが尋ねたときの話です。
さて先日は孫娘の2歳の誕生日。粘土のお遊びセットをプレゼントしました。
5歳の孫息子がすぐにとっかえしてひと騒動。その後、二人で手をぐちゃぐちゃにしながら夢中で遊んでいました。
孫たちを見ながら、仮設住宅で暮らすご婦人たちの「手しごとがしたい」という話と、何か少し重なりました。
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今私が「人とは何か?」と問われたら、「ものを作り続ける生き物」と答えるにちがいないと思いました。
同じく「しごととは何か?」と問われたら、「なす人の喜び」と答えるかな?とも思いました。
なぜこんなことを書くかといえば、「本来のしごととは何か?」を探しているからです。
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同じ日、下の娘から転職の相談で電話が来ました。
話の中で、娘の職場(福祉施設)で最近別な道を歩み始めた二人の同僚の話を聞きました。
一人は男性で家族持ち、3.11で石巻の福祉施設にボランティアとして何度も来ていたそうです。
その同僚が昨年末に突然、今の職場を辞めて家族で石巻に引っ越し、その福祉施設に勤め始めたそうです。
収入は月12−3万円らしく、とても困窮するかもしれませんが、被災した方々を支援することを選んだのです。それが彼の「喜び」だったからでしょう。
もう一人はやはり男性で、ボランティアに来たときにわが家に泊まったY君です。
「ボランティアさん泊まる!」
彼はわが家でも、年寄りと子供が交流できる養護施設を作りたいという夢を話していましたが、ついに実行モードに入ったようです。
その夢を実現するべく、勤めていた福祉施設を退職し、保育所(幼稚園?)に勉強のため転職したそうです。
実に素晴らしき若者たちが身近にいました!
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これらの話に出会うと、「しごと」というものが今までと違った見え方がしてきます。
今までは、「しごと」というものは「結果」を出す「手段」であると思っていました。
もちろんその「結果」というのは、「人の幸せにつながるもの」であることが条件ですが、その大小は「金銭的利益」という尺度に置き換えられると思っていました。
ところが、見方が変わると「しごと」というのは「手段」ではなくて、その行為自体に意味があるように思えてきます。
極端にいえば、お年寄りが日がな、誰が使うものでもない編み物をしていることだって、りっぱな「しごと」といえるのでは?ということです。
そこに「それをなす人の喜び」があるから。
私たちは、「目的」と「手段」というマインドセットが過剰になったせいで、「本来のしごと(そのもの)」を忘れてしまったのではと思えてきました。
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「本来のしごと」とは、「しごとをすること自体が愉しい」ことではないでしょうか。
「いやいや、甘いよ!大昔から人間は、過酷な状況で猟をし、栽培し、製作し、売り買いし・・・・。みんな食うためにやむなくやっていることが多いはずだ」
たしかに食うために「しごと」に無理を重ねてきたというのはわかります。私だってその様にして生きてきました。
だからといって本来「しごと=苦役」ではないはずです。
苦役になるのは、「しごと=金」としてしか考えられないからだと思います。
しかもそのバランスがとれていない、つまり「金」のウェイトが高すぎて「しごと」に無理が生じているせいではないかと思います。
残念ながら現在の経済システム(しごとシステム)は「後退」を認めません。
「成長=善」として、「金」のウェイトをどこまでも高くしていくしくみです。
これでは「金」に「しごと」は隷属し、苦役はますます増していきます。
「成長」ではなく「増殖」していることに人は気づきません。
「成長」は人の質的向上をもたらしますが「増殖」は量的増加だけです。
質向上を伴わない増加はゴミを増やすのと同じです。
ゴミが自分の家を汚くするだけならそれでもいいのですが、そのゴミが周りもみな汚してしまうことが大きな問題です。
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3.11は大変な災害でしたし、まだまだ災害の後遺症は癒えません。
しかし、お詫びのように私たちに残してくれたものもあるように思います。
それは語弊があることを恐れずに書けばこんなことだと思います。
「不足の喜び」 「無償の行為の喜び」
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「不足の喜び」とは何か?
私自身のことですが、3.11のとき停電が7日間続きました。寒いのに暖房が湯たんぽ以外なかった数日間もありました。
ところが電気が復旧したとき、不思議なことですが、何かとても残念な気持ちがしたのです。
「不足の中、夫婦であれこれ工夫してきた。近所や親戚同士で食べ物や水も分け合って暮らした。電気がなくても何とか生きられるという野性を取りもどしていた。そんなことも、もうこれで終わりか。。。」と。
無意識に「不足は悪」だと思って生きてきました。しかし3.11後「不足こそ野性の源」と強く思うようになってきました。
「野性=生きる力=工夫する知恵=喜び」これを教えてくれたのです。
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「無償の行為の喜び」とはまさにボランティアです。
作業というボランティアをしない人もボランティアという行為の価値に気づきました。
それは「交換」ではなくて「分かち合い」という、忘れ去られていた「原初的経済システム」でもありました。
「分かち合い」→「物々交換」→「お金を媒介とした交換」→「お金同士の交換」と推移していった経済システム。
私たちが住むこの世界は「お金を媒介とした交換」が中心ですが、同時に「お金同士の交換」に翻弄されている社会でもあります。
そして、それ以外のしくみを忘れ去った社会です。
今気づいたのは、「分かち合い」という経済システムには「両方が愉しい」という金銭価値以外の価値があったということです。
それは現在の経済システムの中に何らかのかたちで組み込むことができるはずです。
それは「しごと」をもっと「多様化」し、「人に近づける」ことにもなるはずです。
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「手しごとの喜び」ということからだいぶ大上段の話となってきましたが、「何でもいいから手しごとがしたい」という言葉には「本来のしごと」に関する、深い人間の想いが含まれていると私は感じるのです。