「戦う」と「闘う」

 どちらも「たたかう」、同じ読みです。しかしニュアンスは異なります。漢和辞典で調べてみると・・・
 「戦う」:戦争や試合など具体的な争いの場合

 「闘う」:目に見えないもの、抽象的なものとの争いの場合

 例は、「優勝候補と戦う」「病気と闘う」などです。

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 なぜこんなブログを書こうとしたのかといえば、昨日の個人的な体験からです。

 昨日、88歳になる父がちょっとした手術をしました。おかげさまでうまくいき、ほっとしたところなんですが、あれこれ感じたことがあります。


(写真:涌谷町立国保病院の売店、ここには地元の授産施設が出店しています。さらに病院玄関前に同施設で外売り場も出しています。実にいい関係です)

 あらかじめ問診表に過去の病歴などを書くのですが、父は歳のせいで日々薄れゆく記憶力。。。

 私が、自分の記憶と、父にあれこれ聞きながら記載しました。

 書ききれないほどの病歴。。。

 成人してからだけでも、シベリアでの狭心症、帰国してからの虫垂炎、3年入院した肺結核、胃がん、メニエル氏症候群、大腸がん、2度の膀胱がん・・・

 それでも、それぞれの病気が回復すると元気になって、今でも歯は全部自分の歯だし、毎日里山歩きを1時間するほどの丈夫な足腰です。

 昨日、父の手術前に服を脱がせて久しぶりに体を見れば、戦争では甲種合格となったほどの立派な体格もすっかり縮み、腹には刀傷ならぬ手術の痕がめだつだけです。。。

 あ〜父の人生とは、「病気との闘い」であったんだな。と、そんな感慨に一瞬ふけりました。

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 私たちは「たたかう」といえば「戦う」だけを想像しがちです。

 政治も映画も恋愛も決めゼリフはこんな言葉です。しかも必ず「守る」がつきものです。

 「国を守るために戦う」「家族を守るために戦う」「君を守るために戦う」

 人は、こんな言葉が大好きで、戦いあうどちらも同じことを言いながら殺し合いをはじめます。

 必ず一かゼロかのデスマッチです。

 言葉の勇壮感とは裏腹に、本当の暴力とは実に醜悪なものです。

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 さて、ほんとうに大事な「たたかい」はどっちなのでしょう。

 「戦い」よりも「闘い」のほうが私は大事だと思っています。

 人はだれでもみな「闘っている」のです。

 「病気と闘う」「貧苦と闘う」「理想とのギャップと闘う」「目標達成に向けて闘う」「弱点と闘う」「自分自身と闘う」・・・

 相手を打ち負かすことが目的である「戦う」とは異なり、「闘う」は相対的なものではありません。

 「闘う」は、人間として成長することにつながります。

 私には、「闘う」という言葉が、「謙虚」という言葉と大変近しいものに思えます。

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 今の世の中に私はこう言いたいと思っています。

 私たちは戦争なんかしている暇はない。
 それぞれの「闘い」で精一杯なはずだから。

 もし、「戦い」という言葉、「ヒロイズム」にあこがれる人がいたらその人を私はこう思います。

 あなたは、自分のなすべき「闘い」を、見ないふりしたい人に違いない。

 それは臆病ということです。

 大言壮語が得意だったり、好戦的な言動や行動をする人、それは臆病の裏返しであることに、そろそろ私たちは気づかねばなりません。

 「戦う」とは、相対的競争のことです。

 こんな能力ばかり上げていこうとしたら、人は自分自身を見つめなおすことができる「闘い」の能力をますますなくしてしまうことでしょう。

 教育とは、競争力を上げる「戦う力」より、人を高める「闘う力」を与えることのほうが重要なはずです。

 「戦え!」という単純な言葉しか心に響かない、単純なことしか理解できない、私たちがもしそんな大人だとしたら、私たちの子供や孫がどうなるか、とても怖いことです。

参考
 妄想社会小説「一生学校の国」
 ヒトラーの秘密