茨木のり子「球を蹴る人」

 サッカーと茨木のり子さん?いったいどんな詩なんでしょう。それは、あるサッカー選手の自立した清々しさを感じさせる作品でした。。
 彼はいまどこで何をしていることでしょう。新たな価値を探し続ける求道者N・H。。。


 (挿絵:「倚りかからず」より)

茨木のり子「倚りかからず」より

球を蹴る人(N・Hに)

二〇〇二年 ワールドカップのあと

二十五歳の昔年はインタビューに答えて言った

「この頃のサッカーは商業主義になりすぎてしまった

 こどもの頃のように無心にサッカーをしてみたい」

的を射た言葉は

シュートを決められた一瞬のように

こちらのゴールネットを大きく揺らした


こどもの頃のサッカーと言われて
          
不意に甲斐の国 韮崎高校の校庭が

ふわりと目に浮ぶ

自分の言葉を持っている人はいい

まっすぐに物言う若者が居るのはいい

それはすでに

彼が二十一歳の時にも放たれていた


「君が代はダサいから歌わない
            
 試合の前に歌うと戦意が削れる」
                   
<ダサい>がこれほどきっかりと嵌った(はまった)例を他に知らない

やたら国歌の流れるワールドカップで

私もずいぶん耳を澄したけれど

どの国も似たりよったりで

まっことダサかったねえ

日々に強くなりまさる

世界の民族主義の過剰
       
彼はそれをも衝いていた


球を蹴る人は

静かに 的確に

言葉を蹴る人でもあった

 きっと茨城のり子さんは、N・Hに自分の生き様を重ね合わせていたのだと思います。

参考(茨木のり子さんの詩を引用してあるブログです)
 茨木のり子「行方不明の時間」
 茨木のり子「友人」
 店の名
 久しぶりに茨木のり子さん
 人生の季節
 倚りかからず
 ロートル・ネット・シンドローム
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