意地悪じいさんの本

 『筆のすさびと落ち穂拾い』こんな原題が『幸福論』ってタイトルに変わると、印象はまったく変わります。これを書いた人も「哲学者」と呼ぶか、「厭世思想家」と呼ぶかで印象は大違いです。私は「意地悪じいさん」と呼びたいですね。
 今日の主人公は「ショーペンハウエル」さんです。

 そう、あの「デカンショ節」三羽がらす「デカルト、カント、ショーペンハウエル」の一人です。

 彼の書いた本は、この『幸福論』と『読書について』しか読んだ(つまんだ?)ことがありません。

 他の本はといえば、ものものしいタイトルだらけで、よっぽどの不眠症にでもならない限り(強力な睡眠薬として)、たぶん私の一生のうちにはぜったい読まないことでしょう。

 『充足原理の四つの根基について』『意志としての世界と表象としての世界』なんて、オッソロシイ!タイトルなんですから。。。

 ところが彼の『幸福論』というもんは、高校の頃に(少しだけ)読んでおもしろいな〜と思いました。

 なんでおもしろいかというと、まるで「意地悪じいさん」が書いているように皮肉たっぷりで笑えるからです。

 そこで、今たまに「昼便学」するときに持参し、数ページ開いたところを適当にバラバラ読んでいるんです。

 まさに、この教室(昼便教室)にピッタリの本です。なので原題『筆のすさびと落ち穂拾い』のほうが、タイトルとしてなんとなく合っているなと思えるんですよ。

 さて、彼の言ってることはただひとつ(言い過ぎかな?)。

 「バカとは付き合うな。一人で生きろ」

 そのことをいろんな場面の例を出しながら、皮肉たっぷり歯に衣着せず語っています。

 『読書について』という本では、自分が本を書いているくせに、こんな真逆のことまで語っています。

 「読書は、他人にものを考えてもらうことである」

  →読書について

 あれこれ世間の意見の相違でお悩みの今日この頃(「の」だらけだな。。。)、彼の本を読むと少し救われます。

 私はこのショーペンハウエルじいさん、何となく好きですね。

 実生活でもかなりの意地悪じいさんだったことを、バートランド・ラッセルが『西洋哲学史』で書いています。

 クリスマスキャロルのスクルージ爺さんそっくりのようです。

 またショーペンハウアーの教説は、彼自身の生涯によって判断していいとすれば、誠実なものであるとはいえないのだ。彼は一流の食堂で御馳走を食べるのがつねであったし、ちょっとした恋愛を幾度もやっているが、それは肉欲的なもので情熱的な恋愛ではなかった。

 また彼はとほうもなくけんか好きであり、異常なほど貪欲であった。ある時彼は、年配の裁縫婦が彼のアパートの扉の前で、友達と喋っているのをうるさく思い、その女を階段から突き落として、終身の傷害を負わせてしまった。その裁縫婦は裁判に勝って、ショーペンハウアーはその女が生きている限り、四半年ごとに一定の金額(15ターレル)を支払わねばならないことになった。

 二十年たってついにその女が死んだ時、彼は自分の会計簿に次のように記した。「あの老婆が死に、重荷は去る」

 彼の生涯には、動物に対する親切心を除いて、いかなる美徳の証拠をも見出し難いのである。動物への親切だけは、科学のための生体解剖に反対するほどまでに強かった。他のあらゆる面において、彼は完全に利己的であった。禁欲主義が美徳であると深く確信した人間が、自分の実践においてその確信をいささかも具現しようとしなかったなどとは、信じ難いほどである。

 いいですね〜。実に人間的で。「美人美人といばるな美人〜♪。美人heもすりゃkus*もする〜♪」ですよ。哲学者さんだって。

 詩人でもあり歴史家、思想家でもあったハイネの本を「つまみ読み」したときには、こんな言葉も見つけました。(たどたどしい記憶より)

 「おまえさんは、生き方が正しいからといって、この世に美味い酒も女もないというのかい」

 なにか開き直りのようですが、「人間ってもんはいろんな側面持ってるのが当たり前なんだよ。そこを忘れちゃだれも言うこと聞かないさ」ってことですよね。 

 私はつぎのように読み替えてみたいなと思っています。

 「世の中には『良い悪い』だけじゃなく『快・不快』だってあるだろう。『理屈』だけじゃなく『感情』だってあるだろう」

 さらに「経済には『多い少ない』『速い遅い』だけじゃなく『美・醜』だってあるだろう。『善・悪』だってあるだろう」もかな?

<ショーペンハウエル爺さん関係の過去ブログ>
 毒舌幸福論「人は変わりようがないのさ」
 ショーペンハウエル「悩みは幸福の尺度である」
 睡眠は死への利息払い
 本を読むなという「読書論」
 超訳「毒舌幸福論」
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