人の顔が見えるシステムへ

 友人がFBで憤っていました。私も全く同感です。どうして人はこうなってしまうんでしょう。「なぜ国が、4号機の処理に金、人材などの面で最優先させ、全力を投入しないのかがわからない。党首選どころではない。・・・「なぜ」が頭のなかを巡る。でも社会は以前のままで、呑気に動いている。温度差がありすぎる」
 友人の言うとおり、私も地震が起こるたびに福島原発4号機のことが頭をよぎり、とても不安です。

 とてつもない事態が起こるかもしれない綱渡りをしている最中なのに、政治もマスコミもそれをわざと伏せて、党首選やら尖閣竹島騒動ばっかしに関心を引き寄せようとしています。

友人の投稿より

 「なぜ国が、4号機の処理に金、人材などの面で最優先させ、全力を投入しないのかがわからない。党首選どころではない。4号機の燃料取り出しを後回しにして現状のままで大きな地震が起きたら、北は盛岡南は静岡まで、高い放射能で汚染された地域になると、話していた人がいた。

 「なぜ」が頭のなかを巡る。でも社会は以前のままで、呑気に動いている。温度差がありすぎる。「まずは4号機」。でないと、枕を高くして寝られない。

 あまりに深刻すぎて、国中がパニックになることを政治家やマスコミは怖れているのでしょうか?

 どんなに高い志を持っていても、政治の世界、経済の世界に足をどっぷりつけてしまうと、全く別な価値観や行動をする人間になってしまいます。 

 そして、おきまりのパターン。

 口舌の徒に「1か0か?」の二択を迫られ、いやおうなく国民は破滅的方向に導かれていく。。。

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 なぜそうなるのでしょう?

 料理研究家、枝元なほみさんも同じ思いを語っています。

 「1か0か?」ではない第三の選択肢を考えることの大切さを語っています。

 →いよいよローカルの時代.jpg 直

 朝日新聞 2012.9.9「思い出す本 忘れない本」より抜粋いたします。

 東電福島第一原発の事故後、自分はどうやって食にかかわっていけばいいのか、模索し続けています。いまだに経済効率が優先していく仕組みや日本的なシステムを変えられないことに、「どうして」という思いがあります。

 そんな時に偶然出会った本が『いよいよローカルの時代』。著者のヘレナさんはスウェーデンの言語学者で、グローバリゼーションに問題提起をしている世界的なオピニオンリーダーの一人です。ある問題を解決しようという時に、個人を責めたり、個人の悪意や陰謀のせいにしたりせず、問題を引き起こしたシステムを見抜き、みんなで現実を変えていこうという。2009年に出た本ですが、震災後に読んですごく勇気づけられました。

 だれがどう関わっているのかわからない大きなシステムではなく、人の顔がみえるシステムで。グローバリゼーションではなくローカルに。このクッキーづくりはまさにローカルな活動なんです。

 ある雑誌のエネルギー特集で読んだけど、原発のような大きなものを追って広範囲に電気を届けるのではなく、各地域がそれぞれが必要な分だけ自前で電気を調達できるようになればいいと私も思うんです。それはブドウの房のようなイメージだとありました。一粒ずつが元気でぶんぶんしていて一つのブドウになる、というような……。これはヘレナさんの考え方にも通じるところがあります。

 へこむこともあるけど、活動を続けていられるのは、ツイッターなどで同じ志の人と次々とつながることができるから。今、生きている実感がものすごくあります。この本はどこに行くにも持ち歩いています。既存のシステムにからめとられず、二項対立に持ち込まされず、別の方法を模索すれば道は開ける、と教えてくれます。

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 昔の「小商い」の世界では、一人ひとりが「売り手」であり「買い手」でもありました。お互いの「顔が見える商い」の世界でした。

 そこに「悪いこと」や「自分だけよければいい」ということへのブレーキがありました。

 ところが今では、売り手は顔の見えない「大会社」、買い手はワガママ王子のような「評論家」とか「クレーマー」。

 勤めに出れば「申し訳ございません」の米つきバッタで、家に帰れば「なんだ!おまえのところは!」の大変身。

 これじゃ、人の顔など何にも見えない「顔なしの社会」です。

 これが、原発問題の遠因になっていると思います。

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 私たちは、仕事のあらゆる場面に「人間の顔」を取りもどしていくことが必要です。
 
 それをするのが「経営者」の役割です。

 株主の奴隷などではないはずです。ロボットではなく人間ならば。

 そこに新たな企業価値も生まれるはずだと思います。