区別する文化、区別しない文化

 河合隼雄さんの対談を本にした『日本人とグローバリゼーション』が2002年に出版され、当時私も読みました。久しぶりに本棚からとって開いてみたら、何ヶ所か蛍光ペンでマーキングしていました。
 新しい本を買うよりも以前買った本を再読する方が栄養になるな〜と感じることがしばしばです。

 というのは、同じ本でも読んだ当時と今では感じることが違うからです。

 自分のその後の人生経験、社会の変化でそうなるのでしょう。

 それは様々な振り返りをさせてくれます。

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 この本におけるグローバリゼーションの課題とは「異文化コミュニケーション」です。

 対談では、欧米人の思考形式と日本人の思考形式の違いについて多く語られています。

 以前読んだときには、日本人の思考形式のメリットを大いに感じたものでした。
 
 ところが今読み直すと、日本人の思考形式についてはその通りと思いつつ、デメリットも大いに感じるようになったのです。

 その後に起こった様々な災害、事故、事件それらの発生原因、その後の対処がそう感じさせる理由のようです。

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 本書から、河合隼雄氏のお話をいくつか引用します。

区別する文化、区別しない文化

 ・・・先ほど関係の話をしましたが、欧米の論理の普遍性というのは、科学をやったことによって出てきたものですね。

 自然科学から出てくることは普遍的ですから、これは間違いないという考え方。

 だから、自分たちは普遍的に正しいことをやっているんだという前提でどんどん主張してくるわけです。

 そういう考えに対して、私はよくこういうことを言ってやります。

 人間の意識というものは、ものごとを区別するところからはじまる。だから、神話を見れば、天と地が分かれたとか、光と闇が分かれたとか、なにもかも一つのものが二つに分かれていくという展開になっている。

 つまり、区別するということが意識のはじまりで、区別するということを徹底的に洗練させていくことによって、欧米の文化はできている。

 その背後にあるものは、神と人間は違う、人間とほかの被創造物は違うという、非常に明確な区別です。

 それをベースにしてどんどん区別していく。原子なども、そういうところから考えている。原子もまだ区別して電子があるとか、陽子があるとか、まだやろうとするわけでしょう。

 西洋文化はそういうふうにしてすごい体系を作ってきたわけだけど、それと違って、仏教のほうはその逆をやっているんだ。

 そういうことを私は言うんですよ。

 仏教のほうは区別しないほうをやっている。そうすると、さっきから言っているように、先生に会っただけで、なにもしゃべらなくても「うん、わかる」というところがある。これは区別なしに通じていることですね。

 そういうところを、仏教の人たちはさらに修養することによって、西洋の科学者が意識を鍛錬させたのとは逆の方にどんどん鍛錬していくわけです。

 つまり、区別のないほうに鍛錬する。そうすると、ものごとの境目がどんどんなくなっていって、結局はすべてが一緒になる。

 自分は宇宙と一体だとか、宇宙は一つだとか。そちらのほうに体系を構築してきたのが仏教の考え方。

 だから両方あっていのではないかということを説明してやるわけですよ。

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 異文化コミュニケーションとは、お互いの文化やそこから生じた考え方の違いを相互に認識し、それぞれのメリットデメリットを理解し合うことから始まるのでしょう。

 とすれば、私たちは私たちの考え方の特徴を自ら理解しなければいけないし、次にそれを説明できる言葉を鍛えなくてはならないのでしょう。

 新渡戸稲造『武士道』はまさにその考えから書かれた書物であると思います。

 決して民族性を誇るために書いたのではなく、民族性の違いを理解させるために書いたのだと私には思えます。(彼はクリスチャン・クエーカー教徒であり、『武士道』は彼が33歳の時、アメリカで英語にて執筆されました)

 →温故知新『武士道』より

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 河合隼雄氏は西洋的思考は「中心統合型」(インテグレーション)であり、わが日本は「中空均衡型」(バランス)であると表現しています。

 「中心統合型」とは野球の硬球のような真ん中に固い芯があるイメージでしょう。

 「中空均衡型」とは中心が空洞である厚い皮のテニスボールのイメージでしょう。

 ・・・つまり、調和の感覚でおさまっていき、全体でうまくいっているのが日本なのです。

 それにしても、全体でうまくいってはいるのだけれど、中心がパワーやプリンシプルをもっていないというのは、考えてみたら非常に不思議なことです。

 パワーとかプリンシプルをもってみんなをリードするというのがリーダーですが、日本の場合は、むしろ世話役です。みんなをリードしないで、みんなのお世話をして、皆さんのいいようにさせる。そういう人が管理職になっていくというところがあります。

 グローバリゼーションと関係があるかもしれませんが、日本でもリーダー論がいろいろと論じられて、このごろでは日本でも中心統合型のリーダーのほうがいいと言われたりしますが、実際にそういう人が課長や部長になっても、長続きしないのではないでしょうか。

 力とかプリンシプルでやっていけるのは、しばらくのあいだではないかと思います。

 日本人は、管理職に対して、リードすることは期待しません。むしろ、いかに調整してくれるかを期待している人が非常に多い。あるいは困った人をどう助けるかということを期待している人も多い。

 議論をしているときは、中心統合型リーダーが好ましいという意見が多いようですが、実際に力と原理で一つの組織を運営していくのは、なかなか難しいことだと思います。

 これはこれで日本型システムの(柔軟な)長所だ、という認識が以前の私には強くありました。

 しかし、あらゆるシステムとそのリスクがとてつもなく巨大化している現代、この「中空均衡型」のデメリットも目立ってきたように思えます。

 ・・・みんなのせいにして、誰がトップにいるのかがわからない。グルグル回っていて、失敗したときは一億層懺悔とかなんとかやるようなシステムになっています。

 そういう中で、上手に逃げる人は逃げるという構造になっている。だから、日本では責任の所在をつきとめることが非常に困難です。それは中空構造になっているからなのです。

 ただ、まったく責任をとらないというのも困るというので、たまたまそのときに長のポストについている人が責任をとるケースが多いため、実質的には何も責任がないのに辞めたり、マスコミの前で頭を下げたりしなければならないということも起こってきます。

 日本のむずかしいところは、本質的には中空均衡型なのに、長いあいだ欧米社会とつきあってきたため、うわべだけは中心統合型のかたちをとっていたりする点です。

 まさに、原発事故の責任がどこにあるかはっきりしない、だれも責任をとらないということはこの典型的な例に思えます。

 現代は「中心統合型」と「中空均衡型」の他にそれらの欠点を補なえる新しいシステムが必要のようです。

 それはグローバリゼーションへの対応はもとより、自国における巨大システムのリスクをしっかり管理するためにより重要であると思います。

 わが日本で引き続き「中空均衡型」のメリットを活かしていくということなら、次の方向性が必須ではないでしょうか。

 ・システムの巨大化をさけて分散化させる

 ・致命的な結果をもたらす可能性があることは絶対採用しない

 「中空均衡型」の弱いところを自覚したがゆえの賢明な方針になりうると私は思います。

 「身の程を知る」ということでしょうか。

 最近の「特定秘密保護法案」強行採決などの状況をみれば、へたに「中心統合型」のみを志向するよりは、「中空均衡型」を改良する方向のほうがましと私は思うのですが。

 妙案は今のところまだ見つかりません。。。

参考
 →「木を見る西洋人 森を見る東洋人」