「恥の文化」今いずこ。

 ルース・ベネディクト著『菊と刀』という本があります。その本で日本の文化とは、欧米の「罪の文化」に対して「恥の文化」であると分析されました。今の日本にあてはまるのでしょうか?
◆「菊と刀」とは

 この本を読んだのは40年ぐらい前です。結局今でも覚えているのは「罪の文化」「恥の文化」という言葉だけです。でも民族性を定義するには十分な言葉だと思います。

 アメリカの女性人類学者ルース・ベネデクトの主著の一つ。

 原著は1946年に刊行され、48年(昭和23年)に日本語訳が出版された。第二次世界大戦下のアメリカの一連の戦時研究の中から生まれた。日本研究の名著である。直接現地調査が出来ないという制約にもかかわらず、在米日系人との面談、文学や映画の分析を通じて、複雑な日本社会の体質に鋭く迫っている。

 日本社会を特徴づける上下関係の秩序に注目し、その秩序の中で「各人にふさわしい位置を占めようとする」人々の行動や考え方について、「恩」「義理」といった日本人独特の表現を手がかりに分析を進めている。

 とりわけ日本の文化を、内面に善悪の絶対の基準を持つ西洋の「罪の文化」とは対照的な、内面に確固たる基準を欠き、他者からの評価を基準として行動が律されている「恥の文化」として大胆に類型化した点は、戦後の日本人に大きな衝撃を与えた。(ブリタニカより)
 

◆村田光平元スイス大使の書簡より

 昨日、FBで「村田光平元スイス大使が9/5に野田首相に送った書簡より」の記事を見ました。

 →村田光平元スイス大使が野田首相に送った書簡.txt 直

 その文中の言葉に、いたくショックを受けました。

 去る8月24日より3日間、広島で開催された核戦争防止国際医師会議[IPPNW]の世界大会に出席しスピーチをしてまいりましたが、海外からの4号機問題への関心は高まる一方です。世界を脅かすこの問題への対応を東電に委ねて国として最大限の対応をしていないこと、そして放射能汚染による加害国としての罪悪感に欠けることについて海外から厳しい目が向けられ出していることを同大会に出席して強く感じました。

 原発は倫理と責任の欠如に深く結びついたものであるとの認識が、急速に国際に広がりつつあります。福島事故以後も原発推進体制が改められることなく、原発輸出、再稼働などにより不道徳の烙印を押されたも同然の日本の名誉は大きく傷つけられております。

 ヒエ〜〜! 恥ずかしい!!と。

◆二つの「恥の文化」

 「恥の文化」と聞けば、昔の武士が身の潔白を証明するために切腹するような場面を連想します。

 しかし、「菊と刀」における「恥の文化」はそれと違うようです。

 百科事典に記載されているがごとく、「他者からの評価を基準として行動が律されている『恥の文化』」という「仲間はずれ」を嫌う習性のようです。

 同じ「恥」といっても、「武士の恥」「羊の恥」では大違いです。

 でも私は、日本人は「武士の恥」も「羊の恥」も両方持っている民族だと思えるんです。

 何事にも強い責任感、日本流の信用商売、職人の魂、昔の安全な村社会。。。

 それは単に周囲に合わせて生きるだけではない、内面的なモラルを重視した「罪の文化」に近い「恥の倫理」が私たちの根っこにあると思うんです。

 それを、日本人はだれでも「誇り」に思ってきたのではないでしょうか?

◆俗物国家「日本」

 日本人は「真似上手」「独創性は貧弱」と言われてきました。

 きっとそのとおりだと思います。

 私はこれは「俗物」という言葉があてはまるのかな、と思っているんです。ただし、いい意味で。

 最近の私の「ネタ本」である『悪魔の辞典』の定義によれば、

PHILISTINE【俗物】名 

環境によって心が作られ、思想と感情と情緒が流行を追いかけている人。時には学があり、しばしば裕福で、通常は清潔で、必ず真面目である。

 「環境によって心が作られ、思想と感情と情緒が流行を追いかけている人」、これくらい日本人(私も)にピッタリの定義はないんではないでしょうか?

 だから俗物は「環境」についてとても関心を持つのです。それが「自然」や「日々の生活の営み」に対しても柔らかな感性を育ててくれるのだと思うんです。

◆俗物バンザイ!

 「俗物」は蔑みの言葉として使われてきました。でも開き直って「俗物バンザイ!」を叫んでいいと思うんです。

 それは、あらゆる生命体と同様に、環境を大事にし、環境に合わせて生きるという覚悟でもあると思うんです。

 今、日本がおかしいのは、中途半端に「弱肉強食サバイバル原理」にあこがれ、経済原理も生活原理もそこにあるという「囚われ」にあると思うんです。

 それが、「環境」という言葉につながる「暮らし」とか「安心」とか「自然」とかいう言葉を「おまけ扱い」に考える風潮につながっているような気がするんです。

◆経済界のリーダーは「人間」を考えるべき

 リーダーとは「金を稼ぐ人」ではないと思うんです。もちろん全否定ではありませんが。

 リーダーというのは「人を導く人」だと思うんです。サラリーマン社長は「顔無し株主の奴隷」に成り下がらず、「人間としての恥の倫理」について責任感をもっと持たねばならないと思うんです。

 けさ、そのようなことを感じさせてくれる投書が新聞に載りました。

朝日新聞「声」欄 2012.9.12

経済界は原発の危険性直視を

無職 熊谷 健二 (神奈川県大磯町 75)

 経済同友会の長谷川閑史代表幹事が、原発をゼロにしようとするなら、経済への影響がないことについて、政府には説明責任がある、と発言した。このところ、経済界の脱原発に反対する意見を見かけることが多い。

 原発が無くなれば電気料金が上がり国民生活を直撃し、企業は海外に移転するというようなお決まりの主張の一方、原発事故による経済への打撃や、住む場所を失った人たちの生活、放射能汚染による健康への影響に対する不安についてはほとんど触れようとしない。

 地球上の地震の1割が起きているといわれ、世界の水準値から見れば相当なリスクを抱えている日本列島に50基もの原発が林立している。石橋克彦神戸大名誉教授は、「自然の怖さを知ったら原発を建設しないというのが人間の知恵である」とする。そして、福島第一原発の事故はいまだに収束の形が見えず事故の全容も不明だ。

 学者の中には、徹底した分析があれば日本の原発は危険でない、といった相変わらず楽天的な主張もあるようだが、地震がどの程度の規模で起こるかは今の技術では想定できない。また想定外と逃げるのか。経済界も原発の危険に目をそむけず、しっかりと向き合うべきだ。