温故知新『武士道』より

 古典と言われる書を読みながら、今行っていることに、あらためて本質的な意義を見出すこの頃です。
 

 「温故知新(おんこちしん)」とは、温(ふる)きを故(たず)ねて新しきを知るという論語の言葉です。

 過去のことをよく研究して、そこからあらためて新しい知識や意義を見つけだすことをいいます。

 新渡戸稲造著『武士道』からの抜粋です。

 『武士道』とは強(こわ)ばったタイトルに聞こえますが、著者の新渡戸稲造博士は、実はクリスチャンです。

 しかも、クエーカー教徒という非戦・非暴力の立場の宗派であり、現在の日本国憲法制定にも、この宗派の人脈による影響があったことが最近の研究で明らかにされているようです。

 さらに、この本はアメリカでしかも英語で書かれており、世界の宗教や哲学などの幅広い教養の上で論じていますので、世界中に広まることとなりました。(33歳の時に書いたようです)

 この本から、「礼儀」についてその本質を再発見した文章がありますので一部引用して二つ紹介します。

 (外国人の婦人宣教師が、日中炎天下の道で日傘を持った日本婦人と出会ったとき、日本婦人は対談中自分の日傘をおろして、炎天に立ち通したことを外国婦人が非常識に感じている場面)

 しかり、もし彼の動機が、「君は陽にさらされている、私は君に同情する。もし私の日傘が十分大きければ、もしくは我々が親友の間柄であるならば、私は喜んで君を私の日傘に入れてあげたい。
 しかし、私は君を覆うことができないから、せめて君の苦痛を分かつであろう」と言うにあるのでなければ、それは本当におかしい事だろう。
 ・・・・単なる身振りもしくは習慣ではなく、他人の愉快を慮(おもんぱか)る思慮深き感情の「体現」である

 (日本人が「粗末な物ですが」と言って贈り物をする習慣)

 アメリカ人の底意はこうである、「これは善い贈り物です。善い贈り物でなければ、私はあえてこれを君に贈りません。善き物以外の物を君に贈るのは侮辱ですから」
 これに反し日本人の論理はこうである、「君は善い方です、いかなる善き物も君には適(ふさ)わしくありません。・・・この品物をば物自身の価値の故にではなく、記(しるし)として受け取ってください。最善の贈物でも、それをば君に適わしきほどに善いと呼ぶことは、君の価値に対する侮辱であります」
 ・・・アメリカ人は贈り物の物質について言い、日本人は贈物を差し出す精神について言うのである

 何事も、単純に表層的に捉えるのではなく、その成り立ちや経緯について思いをはせないと、せっかくの宝を壊してしまいます。古典はその宝たるゆえんを教えてくれます。