「ビジネス砦の三悪人」手配書には「ムリ・ムラ・ムダ」の三悪人が載っています。私はその中に無罪もいると思うんですよ。
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ノボ・アーカイブス
ムダこそわが命
「それでは弁護人は前へ」
ここは三悪人のやり直し裁判。
弁護人のノボ村長が椅子から立ち上がり口を開きました。
「裁判長、私は三人のうち一名が有罪、他の二名は無罪であると主張します」
「弁護人はその理由を手短に説明してください」
ノボ村長は、ビッコタンコと体を揺らしながら前へ進みました。
そして、手に持ったポスターのような紙を広げ、皆に見せました。
「私は『ムリ』だけが有罪、『ムラ』は推定無罪、『ムダ』は無罪であると主張します」
検察側から手が挙がった。
「裁判長、異議あり。社会通念上あるいは経済効率上、この三者の有罪はすでに歴史的に確定しております!」
裁判長がノボ村長に促した。「弁護人は、主張の根拠を述べてください」
ここから彼の主張についてまとめた文章を紹介いたします。
ノボ村長の主張(要約)
「ムダ」こそが人類の本質
私は「ムダの追求」「ムダの創造」こそが人類の生存目的であり「幸福の要素」であると思っている。ただし「善きムダ」のことであるが。
『遊びをせんとや生まれけむ』というがごとく、この世に遊びすなわち「ムダ」以上に価値あるものはあるだろうか?
なにゆえに経済効率を求めるのかと問えば、それは素晴らしい「ムダ」を創造する、あるいは愉しむ時間や金を得るためといえる。
アートはまさにその典型である。あるいは学問探究、冒険もその類である。
「なにゆえに山に登るのか」と問われ「そこに山があるから」と答えたジョージ・マロリーの言葉はまさにそれを言い得ている。
つまり、「ムダを愉しむこと」こそが私たちの本質であり、内在する生存目的なのである。
ムリは人を損なう
つぎに「ムリ」について述べると、これは間違いなく「善くないこと」である。
「善いムダ」は想像できるが「善いムリ」というものはどうしても想像できない。
「ムリ」がなぜよろしくないかといえば、「人を損なう」からである。
「人を損なう」ということは肉体のみならず、人間性、人間関係をも損なうということである。
さらに「人」だけでなく「生き物」「環境」など、現実世界のあらゆるものについて大きなデメリットを生んでいく。
ムリこそ諸悪の根源
現代社会における問題のほとんどは「ムリ」から生じている。
ムリなエネルギー、ムリな売買、ムリなノルマ、ムリな計画、ムリな役目、ムリな方法、ムリな生活、ムリなローン・・・
原発、経済戦争、領土問題、リストラ、うつ、これらはすべて「ムリ」から生じた結果(症状)である。
最も大きい「ムリ」とは、「ムリ」が当たり前と思い込む「思考のムリ」である。
めざすべき生き方
とすれば、私たちがこれからめざすべき生き方はこうなるだろう。
「あらゆることからムリを取り除き、善きムダを大いに愉しもう!」
その社会は、見ためはとても「つつましいもの」になるだろう。
しかし、笑顔は今よりもはるかに増えていることだろう。
ムラには両面がある
「ムラ」についてはよくわからない点がある。
人の考え、地域の産業、様々な製品、これらの多様性を「ムラ」と捉えるなら、きっとよいものだ。
しかし、意欲のムラ、情緒のムラなどは、互いに迷惑をかけ合うしろものだ。
よって、現状は「どちらとも言えない」ということになる。
許されるムリとは
最後に一つだけ補足したい。
唯一許される「ムリ」がある。
それは「ムリをなくすために行う一時的なムリ」である。
「ムダこそいの〜ち、ムダこ〜そいのち〜、わ〜が〜〜いのち〜♪」
水原弘さんの低音はよかったな〜。