「似ているな〜」が必要な社会

 いいとか悪いとか理屈で考えるのが「論理」、何かに似ているな〜で考えるのが「直感」。今の世に必要なのは「直感」だと思います。
 「へ理屈よりも直感」

 これって大事な「思考法」ではないでしょうか?

 宮崎駿さんもこう言っています

2013.7.21 朝日新聞インタビュー

宮崎駿「零戦設計者の夢」より

 「半径30メートルか100メートルか。それが自分のできる範囲の限界で、それでいい、と思うしかない。以前は世界のためか人類のためか、何かしなきゃいけない、と思っていたが、ずいぶん変わりました。社会主義運動にも興味がなかったわけではありませんが、甘かった。かつて毛沢東の写真を最初に見た時、なんて嫌な顔だろう、と思いました。周囲が『大きな温かい人だ』と言うから、たまたま写りが悪かったんだ、と思おうとしたけど、その勘を信じればよかった。他にも色々、判断の間違いがありました。実によく間違える人間だと思います」

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 「今は、あの頃と似ているぞ」という類推的直感歴史観で考える方がいらっしゃいました。

2013.12.17 朝日新聞

(どうする?秘密法)転換点、大事なとき 半藤一利さん

 この国はどこに向かおうとしているのでしょう。個人情報保護法だけでも参っていたのですが、特定秘密保護法ができた。絶望的な気分です。

 個人情報保護法で何が起きたか。軍人のメモや日記を調べに防衛省防衛研究所を訪ねても、「個人情報」にかこつけて見せてくれなくなった。形式的には「遺族の許可が必要」というが、たとえ孫や遠い縁者を探し出せても答えはノー。つまり事実上の閲覧拒否です。秘密法でさらに秘密とされるものが多くなると、手も足も出なくなります。

 歴史的にみると、昭和の一ケタで、国定教科書の内容が変わって教育の国家統制が始まり、さらに情報統制が強まりました。体制固めがされたあの時代に、いまは似ています。あのときは、戦争になるまでそれから7、8年かかったけれど……。国家の明日というのは不思議なもので、その時代に生きている人は案外わからないものなんですよ。

 これから集団的自衛権の拡大解釈、そしてその先には憲法改正の動きが待っているのでしょう。しかし、そうならないように頑張るしかない。

 自民党の憲法改正草案には「公益及び公の秩序」という文言が随所に出てきます。「公益」「公の秩序」はいくらでも拡大解釈ができる。この文言が大手をふるって躍り出てくることが、戦前もそうでしたが、歴史の一番おっかないところです。この国の転換点として、いまが一番大事なときだと思います。

 半藤さんは「個人情報保護法」にすら参ってしまった体験を書いておられますが、私も実に同感です。

 身近な話ですが、今年の春彼岸、亡くなって17年たつ親友の墓参りに行ったんです。

 とてつもなくも広大な霊園で墓の住所を忘れてしまいました。

 管理棟に聞いたら個人情報なので教えられない、遺族に聞いてくれというんですよ。。。

 これとは別な話ですが、私の母が眠るわが故郷の墓地にも、以前は墓の配置に合わせて名字を記した看板が立っていたのですが、今では名字がなくなっています。

 これじゃ近い将来「墓石には名字を入れないように」という法律さえできかねませんよ。。。

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 「理屈」はどんなふうにでもつけられます。

 「経済発展を持続するために」とか「日本の安全を守るために」とか、「愛する家族を守るために」とか、「積極的(攻撃的?)世界平和のために」とか。

 そう言われると、対抗する理屈をうまく言えなかったり、何事も強くて元気そうなのがいいと思って「はい、そうですね」と首を縦に振る人がほとんどになってしまいます。

 予想されるあれこれにも「なに、心配しすぎだよ」と思う人がほとんどです。

 「心配しすぎる理由がある」ことを知ってる人はあまりいません。

 ということで、いつのまにか「ありゃりゃ、いつか来た道みたいだ、もう車はバックできないよ!」

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 半藤さんの『昭和史』は、そのいつか来た道を私たちにくっきりと見せてくれます。

 特に太平洋戦争終戦までを書いた上巻は、その時代のあまりに人間臭く愚かしいあれこれを見せてくれて、とても勉強になります。

 理屈で考えると同時に、似たようなことを選択したらどのような結果になったのかを、過去の歴史から学び、その類似について考えるべきではないでしょうか。

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 日常生活のあれこれと同じで、最初の角度がほんの少し違うだけであっという間に別な方向へ進んでしまいます。

 あるいは火事と同じで、最初は小さい炎でもあっというまに火勢が拡がり消火できなくなってしまいます。

 焼けるだけ焼けてしまうまで。

 「それでも仕方ないんじゃない、失敗して学ぶんじゃないの?」とはもう言えない時代です。

 今や「失敗」とか「間違い」が「やり直しができない壊滅的なもの」に変わってしまったからです。

 大量殺戮兵器主体の現代の戦争、郷土を壊滅させた原発事故。。。

 こんなとてつもなく危険なものだらけの社会を作ってしまった私たち。

 今必要なのは、理屈で考えることではなく、類推することではないでしょうか。

 「何かと似ているな〜」

 「いつかあったことと似てきたな〜」

 「こうするとああなるな〜」

 何と比べてみるかといえば、ひとつには自分自身の人生体験。

 もうひとつは、人類や民族や国の体験である「歴史」ではないでしょうか。

 その歴史も高貴な方々の華々しき誇りあふれる物語ばかりではなく、実は歴史の主人公であり登場人物のほとんどを占める私たち庶民の実態についても学ぶべきではないかと思うのです。

 それが一番頼りになる「直感」を研ぎ澄ましてくれるのではないでしょうか。