善意と純情は困りもの?

 世に「善意」と「純情」より怖いものはなし、すべてが許されていると思うゆえ。というお話しです。
 これは耳の痛い話です。

 理想主義者、人道主義者、平和主義者、民族主義者、動物愛護主義者。。。

 先頃の国際司法裁判所の「調査捕鯨違法判決」も、チラッと頭をかすめました。

・・・・・・・・

 「確信犯」という言葉があります。

 今では「悪いと知って行う犯罪」の意で多く使われますが、もともとは「善いと確信して行う犯罪」を意味します。

 「善意」と「純情」は、本来の意である「確信犯」に限りなく近いものかもしれない、というお話しです。


 

中村邦生著『いま、きみを励ますことば』(岩波ジュニア新書)
「4章 大人の世界とは」より

善意と純情は困りもの?

 考えてみると、およそ世の中に、善意の善人ほど始末に困るものはないのである。

 ぼく自身の記憶からいっても、ぼくは善意、純情の善人から、思わぬ迷惑をかけられた苦い経験は数限りなくあるが、聡明な悪人から苦杯を嘗めさせられた覚えは、かえってほとんどないからである。

 中野好夫 『悪人礼賛』

 これはいったいどのような理由によるのか? どちらかと言えば、人生のシニアコースの問題に入りそうな言い方だ。

 『悪人礼賛』 によれば、善意と純情の困った点は、ただその動機が善意であるというだけの理由で、自己を肯定し、一切の責任が免除されていると考えているらしいことで、他人の迷惑など配慮しない無法と無文法(ノー・グラマー)にあるという。

 一方、悪は決して無法ではなく、基本的なグラマーと言うべきものがあり、それを心得て警戒さえしていれば、むしろ付き合いやすいと述べる。

 だから、たとえば、金も名誉もいらないとか、無私無欲などという人間は、むしろ厳重な警戒が必要なのである。

 善意と純情のゆえに「この種の人間は何をしでかすかわからぬ」からだ。

 たしかにがむしゃらな善意と純情は、いささかその思い込みの強さが思考と感性の柔軟性に欠け、扱いに困ることがある。

 もちろん、こういう見方は、「小児の如き純情を売り物にしている」大人に対して言われているのであって、若い世代の者が我が身の信条として飛びつくものではない。

 ただし、こうした人間観も知っておくことは、自分自身に課す感情教育にとって、意外に大切なことなのだ。

・・・・・・・・

 中野好夫(一九〇三−八五)は英文学者、評論家。シェイクスピア、スウィフトの 『ガリヴァー旅行記』、モームの『月と六ペンス』をはじめ、多くの優れた翻訳のほかに文芸時評、評伝、社会評論と多面にわたる執筆活動を行なうと同時に、第二次世界大戦後、在野の立場から積極的に平和運動に加わった。

 改めて引用のことばを考えてみれば、これらはイギリスの諷刺文学に親しんだ人ならではの考察と言えるであろう。

 「聡明な悪人こそは地の塩であり、世の宝である」という人間観も、隠者的な偏屈や逆説とは異なり、人間という複雑な存在を一面的に見ることを拒んだ、剛毅なほどの寛容からきていることに注意したい。

 
 (単純な)善意と純情よりも、したたかな「偽善」「露悪」「日和見」のほうがマシかもしれませんね。
 
 先日会社に来たある方がこんな話をしていました。

 「昔の同僚なんですが、今、タクシー会社数社をかけもちでクレーム対応の仕事をしているんですよ。その彼が言うんですが、お金を要求してくれると(かえって)実にありがたい。一番困るのは『誠意を示せ!』一点張りの人だ」

 田舎のある居酒屋の常連で電工をしている方が、例の「日韓関係のいつまでも抜けないとげ問題」のニュースを見ながらこんなことを私に問いかけました。

 「いつまでも終わんないんだっちゃね〜。お金で解決できないのすかや?」

 お金で解決するとはなんと下品で悪辣で真実にフタをして。。。と私たちは思いがちです。

 たしかに、何でもすぐに金で解決しようとすることが現代社会の病理となっていることも事実です。

 しかし、中野好夫さんの語るがごとく、

 「考えてみると、およそ世の中に、善意の善人ほど始末に困るものはないのである」
 
 つまり「我こそは正義なり」という人ですね。(自らの反省をこめて)

 人間社会においては「悪」ではなくて、悪のふりした「聡明さ」「クールさ」「したたかさ」が必要(必要悪?)ということでしょうか。

(参考)
耳を傾けるという価値
情熱のうらおもて
西部劇の「三典型」