戦国武将の子孫、悩む。。。

 「この本譲ってください!」週末にある食堂で偶然出会った雑誌。とても興味深い記事を見つけたので、思わず無茶を言いもらってきました。
 その雑誌とは、仙台発・大人の情報誌『りらく』昨年の8月号でした。

 興味を惹かれた記事はこれです。
 

 私は普通ならこのような歴史的英雄の末裔の方々の話などあまり読む気はしません。

 どうせ「先祖の誇り」だ、「武士の魂」だとかなんとかの自慢話だろうと。

 ところが!

 次のページを開くと大きな活字が目に飛び込んできて「おや?」と思いました。

 この方々は普通とちがった考えを持つ子孫たちだ、と直感し本文を読み始めました。

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伊達藩と真田家の縁

 まずはお二人のご縁から。

 「真田十勇士」で有名な「真田幸村」を知らない人はいないことでしょう。

 仙台は独眼竜「伊達政宗」の藩、その右腕が白石城主の「片倉小十郎」でした。

 関ヶ原の合戦後、大坂の陣を経て戦国の世は平定されたが、その最後の戦の場で伊達・片倉軍と真田軍とは戦火を交え、豊臣家滅亡とともに真田幸村は命を落とした。

 ところがその時、歴史の不思議ともいうべき出来事が起きていた。

 大阪城落城前夜、真田幸村は敵方だった徳川方の武将・片倉小十郎に、自分の遺児を預けたい旨を申し入れる

 それを受けた片倉小十郎は、ひそかに白石城へとその子どもたちを落ち延びさせ、その後養育したとされている。

 共に名将として名を馳せたとはいえ、命を賭けた戦の敵味方、敗軍と勝軍だったはずの両者の間にいったい何があったのか。

 今回のインタビューでは、その片倉家第16代当主・片倉重信氏、仙台真田氏第14代当主・真田徹氏の対談が実現した。

 まず、なぜ真田幸村の子孫が敵方、しかも遠いみちのくの伊達藩片倉小十郎に預けられたのでしょうか?

 実は片倉家はもともとは信州の諏訪大社の神官の出身であり、また真田家の先祖は山伏の管理元締めをしていたそうです。

 そういう神社同士のつながりと、家康への反感や対抗意識がともにあり、密約のもとで行われたのでは、と二入は推測しています。

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家系がコンプレックス

 片倉:・・・それもプレッシャーだったといいますか。片倉家に生まれたコンプレックスがあったのです。恥ずかしいような気持ちといえばいいのか、何とも複雑な感情でうまく言葉では表しにくいのですが、とにかく片倉家に生まれて誇りに思う、というような気持ちはありませんでしたね。

 真田:私も同じなんですよ。真田家の子孫であるということが嫌で嫌で仕方なかったんです。子どもの頃から、真田幸村の子孫だと周囲からいわれるのは本当に苦痛でしたし、大人になってからもその思いはずいぶんと長く続いたものです。

 
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先祖が犯した罪

 片倉:子どもの頃に病気がちだったといいましたが、それ以外にも体にケガをした傷がたくさんあって、性格的な部分も含めて、きっとご先祖がたくさんの人を殺した罪ではないかと自分では思っています。自分の家のことを話したくない、人からもいわれたくなかったのには、そういうこともありました。

 真田:うちでも親からは、代々子どもがあまり生まれない家系だということをいわれていました。先祖が多くの人を殺した人だったから、その報いなのだいうようなことです。実際にさかのぼって調べてみると子どもが一人だけとか、本当にそういうことが多かったようで、だからこそ英雄が偉いとは思えないのかもしれない。

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戦国武将ブームへの警鐘

 真田:戦国武将ブームというのがありましたが、戦国時代がかっこいいというのは、それは絶対にだめだという思いが強くあります。人をたくさん殺した、人がたくさん死んだ時代なのに、それに憧れるというのはおかしい。ゲームなんかでも人を何千人殺して勝ったとか、そういうことはとにかくだめだよと、機会があるたびにこれだけは伝えるようにしているんです。

 片倉:片倉家の二代目は「鬼小十郎」の異名をとりました。大坂夏の陣で90人もの首を取ったからだといいますが、そんな行為で英雄になるのかという思いがあります。これが小さい頃から自分の重しになっていました。

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いくさの実像

 片倉:戦ひとつとってみても、現地を実際に歩いてみなければ理解できるわけがない。たとえば関ヶ原といったって、今の仙台から大阪まで全員がたくさんの荷物を引いて自分の足で歩いていって、それから戦うわけなんですから。

 真田:我が家にも甲冑というものが遺されていますが、あんなの着てたら重すぎて動きたくなくなるから、当時の武将は床几に座って指示するだけだった(笑)。戦なんて大変なものだから、本心ではなあなあでやりたかったと思います。

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城への思い

 真田:城を見て、皆さんは財産だといいますが、あれだって人民から吸い上げて築いたものですよ。

 片倉:私も白石城が再現されたと時、片倉家として嬉しいでしょうと聞かれましたが、全然嬉しくないと答えたのです。観光目的の人が集まるだけですから。個人的には城も何もないところに来て、その場に立って想像を巡らせる方が、より歴史を深く考えるし、知ることができるように思います。

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伝えたいこと

 真田:戦争はするなということです。昔も今も同じで、戦争を賛美してはだめなんです。戦争なんて絶対にかっこいいものじゃないし、武将たちは、戦わないために知恵を絞ったという事実を忘れてほしくない。

 片倉:これまで悲しい歴史の積み重ねでしたが、今では我々のご先祖さんたちも皆仲直りできました。現代でも同じことができるはず。人の上に立った者の、家臣を犠牲にしてきた者の子孫として、そう願っています。

 なんという冷静な視点と自省、謙虚な考えを持つ方々なのでしょう。

 私たちの「英雄崇拝」心理について、その危険性を教えてくれるお話しでした。

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 「いくさ」を決して美化せず、冷静かつ人間的な考えができるのは、ご先祖様が「英雄」という座に祭り上げられているゆえかもしれません。

 反対に「戦犯」というレッテルを貼られた先祖を持つ、今をときめく政界の子孫たちは、この方々とは正反対の感情を醸成してきたのではないでしょうか。

 先祖への誇りとコンプレックス、複雑な人間心理が、現代政治にも大きな影響を及ぼしているように思えるのです。

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 余談になりますが、

 片倉氏は伊達政宗を祭神として祀る「青葉神社」の宮司をされております。

 それゆえか、夢でしじゅう伊達政宗と話し合っているそうです。

 伊達政宗が話されるには、彼は弟「伊達小次郎」を殺害した芝居をして、実は隠して生きのびさせていた、とのことです。

 小次郎の墓のある土地を母親に化粧地として与えていたのはそのためだろうと、片倉氏は語っています。