トンイの国とわが郷土

 韓国歴史ドラマは本当におもしろい!休日は録りためた「トンイ」を見ながら朝食です。7−8年前は「チャングムの誓い」を二回も三回も。でもお隣なのに歴史はあんまり知らないんですよね〜、私だけかな?

 韓流ドラマや韓流ポップスの人気とともに「嫌韓」「反韓」が根強いのも事実です。(最近は嫌中、反中のかげに隠れてますが)

 明治以降の日本と朝鮮の不幸な歴史だけが強く印象にあり、それ以前のかの国の歴史や日本との関係についてあまり知られていないのも一因ではないでしょうか。

 互いの国について固有の歴史を知り、さらに過去の深いつながりを知れば、互いが偏狭なナショナリズムに陥ることは(少しでも)防げるのではないかと思うのです。

 とはいえ、かく言う私も辛い韓国料理は苦手だし、あの燃えあがるナショナリズムにも違和感を感じてきた一人ではあります。

 自省もこめて、身近なところから、お隣の国と私たちの国とのつながりを再発見したいと思います。

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1.涌谷町と奈良の大仏

 私が住む町は宮城県遠田郡涌谷(わくや)町というところです。

 先日わが町の温泉施設「天平の湯」に行きました。

 休憩しながら観光パンフををじっくり読んでいたら、奈良時代における朝鮮とわが町との深い関係を知りました。大変遅ればせながら。。。

 さて、奈良の大仏ができたのはわが涌谷町で日本で最初に金がとれたからです。

 万葉集で大伴家持はそれを祝し、次の有名な和歌を詠みました。

 「天皇(すめろぎ)の御代(みよ)栄えむと あずまなる陸奥山(みちのくやま)に 金(くがね)花咲く」

聖武天皇の大仏建立

 五丈三尺五寸。大毘盧舎那仏(大仏)

 完成を前にして、「天下の富を持つ者は朕なり」と豪語していた聖武天皇にも、どうにもならぬ壁がはっきり意識されてきた。

 この巨大な尊容を四海久遠の救主として荘厳する塗金の資がまったく底をついてしまったのである。

 黄金はこの日本国からは産出しない、ということになっていた。聖武天皇がじりじりしていた時も時。

 みちのおくの国守百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく)というものから、早馬の朗報が届けられた。

 「管内小田郡から黄金がでた。とりあえず九百両(約13キロ)、謹んで献上する。」
 燦然と光かがやく砂金の山を前にして、どっと喜びの声がわきあがった。天平21年(749)正月四日のことである。国をあげての大慶祝行事となった。

 この年の4月1日、天皇は東大寺大仏殿に行幸し、皇后・皇太子以下群臣・百寮・士庶みなこれに従うという国をあげての行事であった。

 4月に元号は天平から天平感宝、7月には天平勝宝と改まった。すなわち国をあげての仏国土づくりの大事業が、この「勝宝」によって完成できるとされたのであった。

 元号を変えてしまうほど、この天平産金は劇的だった。

  →引用元はこちら 

 この時から一帯はゴールドラッシュの様相をなし、ために「金が湧く谷=涌谷」という地名になったのだそうです。

 産金の史実は有名なことですが、私は砂金の採取法を伝授した「百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく)」なる人物のことは知りませんでした。

 「続日本紀(しょくにほんぎ)」によれば、彼は当時朝鮮半島で滅亡した百済から日本に亡命した人物の子孫であるそうです。

 奈良時代、朝鮮血縁の人が東北の国主(州知事みたいなもの)であったということは驚きです。

 大和民族純血国家の印象が強い日本史において意外な気がします。

百済王敬福について

 大和朝廷の時代、朝鮮半島では高句麗(こうくり)・新羅(しらぎ)・百済の3国が並び立っていた。

 しかし百済は660年に、高句麗は668年に、唐と新羅の攻撃をうけて滅亡した。大和朝廷は古くから、とくに百済と友好関係にあったため、百済が滅亡をむかえた時、救援軍を朝鮮半島に派遣して百済の再興をはかったが、663年の白村江(はくすきのえ)の戦いで、唐・新羅の連合軍に大敗し、百済国の人々が多く日本に亡命した。そして百済の義慈王(ぎじおう)の子、善光(ぜんこう)は百済王の姓を与えられ朝廷の貴族の一員に加えられた。敬福は善光の曾孫である。

 敬福は多賀城を創建した大野東人(あづまひと)のもとで次官(陸奥(むつの)介(すけ))をつとめた経歴を有し、東人の後をうけて奈良時代中期には、朝廷の東北地方支配の責任者をつとめた。詳細は不明であるが、敬福が鎮兵制度の改革を行ったという記録もある。
 →引用元はこちら

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2.桓武天皇の母親

 日本は「単一民族」「単一国家」と思っている方が多いと思いますが、歴史的事実ではないようです。

 平安遷都を行った桓武天皇の生母はお隣の国出身であったという話です。


今上天皇の発言

 平成13年(2001年)12月18日、天皇誕生日前に恒例となっている記者会見において、今上天皇は翌年に予定されていたサッカーワールドカップ日韓共催に関する「おことば」の中で、「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く、この時以来、日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また、武寧王の子、聖明王は、日本に仏教を伝えたことで知られております。」との発言を行った。
 →wikipedia「桓武天皇」より

 「続日本紀」によれば、奈良時代末期において、飛鳥の地がある大和国高市郡の人口の八割ないし九割は渡来人であったそうです。

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3.神社と朝鮮文化


岩波ジュニア新書『もっと知ろう朝鮮』より

 実際、日本文化といわれるもののなかには、朝鮮文化の影響をうけたものが少なくありません。いわば「日本のなかの朝鮮」といってもいいものが日本文化のなかにたくさん見られます。

 日本と朝鮮の文化の密接な関係を裏づけるものとして、日本には現在でも、いたるところに古代から伝わる朝鮮文化が生きつづけています。

 たとえば日本各地には高句麗(こうくり)・百済(ひゃくさい、または、くだら)・新羅(しんら、または、しらぎ)といった古代朝鮮三国の名をつけた高麗(こま)神社、百済神社、新羅神社がたくさんあり、またそれが他のところでは許麻(こま)神社、狛(こまえ)神社、百済王神社となり、あるいはまた新羅は白木神社、白城神社、白髭(しらひげ)神社、白山(はくさん)神社などとなっています。

 神社の社殿の前におかれた左右二匹の獅子によく似た狛犬(こまいぬ)も、本来は高麗の犬という意味です。

 もちろん朝鮮文化は中国の文化のつよい影響を受けており、また日本の文化も直接中国文化を受けいれてもいるので、日本文化における朝鮮文化の比重を一方的に強調するわけではありませんが、逆に日本文化と朝鮮文化を切り離して考えるのも不自然なことといえます。

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4.陶磁器と東郷茂徳

 東郷茂徳(とうごうしげのり)は大日本帝国最後の外務大臣であり、太平洋戦争を避ける努力をなしたがかなわず、という悲劇の政治家としても有名です。

 彼は朝鮮人陶工朴氏の子孫であり、彼の先祖が有田焼、唐津焼、薩摩焼、萩焼をはじめとする日本がその後世界に誇る陶磁器の技術をもたらしたそうです。

 1882年(明治15年) 鹿児島県日置郡苗代川村(後の下伊集院村大字苗代川、現在の日置市東市来町美山)で、陶工・朴寿勝の長男「朴茂紱」として生まれる

 東郷茂徳は豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に捕虜になり島津義弘の帰国に同行した朝鮮人陶工の子孫である。

 陶工達が集められた「苗代川」(現在の日置市東市来町美山)と呼ばれる地域では幕末まで朝鮮語が使われていたという。

 薩摩藩は苗代川衆を保護、優遇し藩内の身分は士分とした。

 父・朴寿勝は優れた陶工で、横浜や神戸にも積極的に出かけ、外国人にも焼き物を売り込む実業家としての手腕にも長けていた。

  →wikipedia「東郷茂徳」より

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5.それぞれの社会に誇りがある

 天皇家や大日本帝国の重鎮さえもお隣の国とは深い血縁関係にあることがわかります。

 日本は決して「ガラパゴス」ではなかったこともわかりました。

 韓流歴史ドラマに浸りながら、当時の日本と朝鮮の関係などについて知識を新たにすることはとても有益だと思います。

 それぞれの国が「わが民族の誇り」を叫ぶのも大切でしょうが、その前に「日本史」「各国史」「世界史」を勉強しなければ。。。

 そうすると、あらゆる国や民族は過去に混じり合っていることがわかります。

 西欧中心的歴史観、進歩主義的歴史観に異を唱え、構造主義の祖とされる人類学者のレヴィ・ストロースはこう語っています。

 単一文化、というのは無意味です。そのような社会はかつて存在したことがないからです。すべての文化は攪拌と、借用と、混合から生まれたものです。そしてそのテンポは違っているでしょうが、有史以来そのことは変わりありません。(『遠近の回想』)

 さらに大事な気づきは、どこの国にも自国の文化や暮らしに対する「誇り」があるということがわかることです。

 お互いの「誇り」(その中には文化や習慣の違いに過ぎないものもあるでしょうが)を理解し合うことは、国際社会のメンバーとして基本であると思います。

 その「誇り」とは「自慢」「うぬぼれ」「排他」とは違うんじゃないかと思います。

 じゃなんだ?と聞かれてもまだズバリ答えられませんが。。。

 あえていうなら「これイカスでしょう!」と言って、自分ではなく他の人や国から笑顔や拍手がもたらされる考え方や行動習慣かな?

 レヴィ・ストロースは『野生の思考』のなかでこのような文章も書いています。


 ・・・すなわち、現在の地球上に共存する社会、また人類の出現以来いままで地球上につぎつぎ存在した社会は何万、何十万という数にのぼるが、それらの社会はそれぞれ、自らの目には、(われわれ西欧の社会と同じく)誇りとする倫理的確信をもち、それにもとづいて(たとえそれが遊牧民の一小バンドや森の奥深くにかくれた一部落のようにささやかなものであろうとも)自らの社会の中に、人間の生のもちうる意味と尊厳がすべて凝縮されていると宣明しているのである。

 それらの社会にせよ、歴史的地理的にさまざまな数多の存在様式のどれかただ一つだけに人間のすべてがひそんでいるのだと信ずるには、よほどの自己中心主義と素朴単純さが必要である。人間についての真実は、これらいろいろな存在様式の間の差異と共通性とで構成される体系の中に存するのである。

 この文章はサルトルへの批判として書かれた「歴史と弁証法」の章に書いてあります。実はほとんどチンプンカンプンでこの本を(かろうじて)読んでいるのですが、この文章だけはスーッと頭に入りました。