古市憲寿『だから日本はズレている』を読み終わりました。これは買ってよかった本でした。自分の「どや顔」を思い切り鏡で見せられたようです。
今までの個人的な経験ですが、タイトルが思わせぶりだったり、紋切り調だったりする本にろくなものはありませんでした。
さらにそれが「ノウハウ本」の場合は悲惨です。
買った自分を情けなく思えてしまうことがたびたびでした。
古市憲寿『だから日本はズレている』も、もしかしたらそうかな〜。。。
と思いつつ、根っからの「ダメンズ・ウォーカー」ゆえか、つい買ってしまいました。
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ところが!
読んでみたらさにあらず。
とっても考えさせられ共感させられる本です。
それに読みやすい。
きれいな鏡に自分の「どや顔」「アホ顔」がはっきり写し出されるようです。
中身は「なるほど!」とうなずけることだらけなのですが、このブログでは紹介しきれません。
短い前書きと後書き(だけ)を紹介しながら、自分の思いもつづってみたいと思います。
あ、そうそう、本書の仮題は『「おじさん」の罪』だったそうですが、編集部の「おじさん」たちの反対でボツになったそうです。
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もしかしたら現代社会の主役を担っているのかもしれない、私たち「おじさん」世代。
無意識に持っていた「さまざまな勘違い」、言われてみればもっともです。
・・・特に、国や企業などの上層部にいて、今の日本を仕切っている偉い人には謎が多い。
ただ「強いリーダー」を待望するだけで、なかなか自分では動き出さない。
「クール・ジャパン」や「おもてなし」と言いながら、内実は古臭い「挙国一致」の精神論。
これからは実力主義の時代だと煽りながら、結局はひとを学歴や社歴でしか判断できない。
自分ではそれほどITを使えないのに、やたら「ネット」や「ソーシャル」の力を信じている。
これらの「勘違い」はどこからくるのだろうか。・・・
クール・ジャパンを推進しているらしい?「ホット・ジャパン」の政経会のお偉方はまさにこれですね。
本文を読んでいくと、さらに同感!って感じです。
でも読んでいくうちに、程度の差こそあれ、私だって似たようなもんだな〜と思わされます。
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さて、「おじさん」の定義とはこうらしいです。
「おじさん」とは、いくつかの幸運が重なり、既得権益に仲間入りすることができ、その恩恵を疑うことなく毎日を過ごしている人のことである。
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そしてダース・ベーダーのごとく、すべての若者は「おじさん」になっていきました。
かつては男性でありさえすれば、多くの人が「おじさん」になることができた。
高度成長期やバブル期など、経済成長が続いていた日本では企業社会が積極的に若者たちに対してその門戸を開いていたからである。
はじめは「おじさん」の世界に理不尽さや違和感を抱いていた若者も、次第にそのルールに順応していく。
会社のカラーに染まり、組織の意向を疑わなくなり、「おじさん」の世界の一員になっていく。
人は、今いる場所を疑わなくなった瞬間に誰もが「おじさん」になる。
「いちご白書をもう一度」のフレーズが浮かんできます。
「就職がきま〜って、髪を切ってきたとき、もう若くないさと、君に言い訳したね〜」
このときから「おじさん」の道を歩み始めたんですよね〜。
いいにつけ、悪いにつけ。
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やがて「しわ」とともに「どや顔」「アホ顔」、つまり「権力オヤジ」になっていきます。
政経界のお偉方はその典型であります。
たまたまラッキーで「おじさん」になれだけかも知れないのに、それを自分の手柄のように思い込む。
そして、「おじさん」界の外にいる「若者」や「女性」に対して冷たくなっていく。
自分の幸運を棚に上げて、不遇な状況にある人を自己責任だと切り捨てる。
そういった人を、僕は性別や年齢に関係なく「おじさん」と呼ぶ。
とはいえ「おじさん」だらけの世界はけっこう自信が持てるリッチな世界のようでもありました。
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ところが今では「遠い佳き日の思い出」のようになってきて。。。
しかし今、堅牢だと思われた「おじさん」の世界自体が壊れ始めている。
業績の悪化に苦しむ老舗企業、誰も解決策を見いだせない社会問題にたじろぐ政治家たち。
もちろんさすがに「おじさん」も自分たちの世界の崩壊に気付いている。
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リッチな中身がどんどん希薄になってきた今。
おじさんたちは「強くて華やかな外部の虚構」に己の存在価値と未来を見いだそうとしているようです。
しかし、その解決策がまた「おじさん」流なのだ。
強いリーダー、ポエムのような憲法、東京オリンピック、ソーシャルメディア。
そういったもので、社会が何もかも変わることはあり得ない。
「おじさん」は、「今ここにないもの」に過剰に期待してしまい、「今ここにあるもの」に潜んでいるはずの様々な可能性を見過ごしてしまっているのだ。
「ポエムのような憲法」というのは現行憲法のことじゃないんです。
「自民党の憲法草案」をポエムだと筆者は語っているのです。分析的に。
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この本を読むとほんとうに私たち「おじさん」世代の錯覚や偏見がわかります。
そして、その根本は何ゆえかと言えば、著者はこう語っています。
社会を変えられるのは「若者」ではなくて「おじさん」だ。
「おじさん」のほうが、若者よりも人脈もお金も経験も、あらゆるリソースを多く持っている。
それなのに、自分は安全圏にいて「若者」が社会を変えてくれると勝手に期待するのは、あまりにも都合が良すぎる。
よくカネを出しても口を出さないのが一番いいというが、口だけ出してカネを出さないのが一番良くない。
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それじゃ若者代表の古市さん、あなたはいったいどうしたらいいって言うんですか?
しかし「おじさん」になるのは、悪いことばかりではない。
「おじさん」は「若者」よりもパワーを持っている。
そのパワーを適切に使うことができれば、社会はきっといい方向に変わっていく。
「おじさん」のふりをしながら、「若者」の気持ちを忘れないでいることもできるはずだ。
そして「おじさん」と「若者」が手を組むのはそう難しいことではない。
「ズレ」はちょっとした工夫で埋めることができる。
この本自体、「おじさん」と「若者」 の協力によって生まれた。
読後感想を一言で書くなら、
この本は、実は「おじさん応援歌」でありました。
そして、私も含め「おじさん」たちは何をすべきか?
それはこの本を読んで私たち「おじさん」が持つズレを理解したとき、それぞれの心に自ずと生まれてくることでしょう。
天野祐吉さんの言葉を私は思い出しました。
「成長」から「成熟」へ