4年前の日記に書いたこと

 あの日からもう4年。。。あの頃の日記を読み返し、忘れないようにしなければと思いました。
 最近また地震が多くなってきました。

 このブログを書きながらモヤモヤとした不安が胸をよぎります。

 せめて放射能の心配さえなければ、どんなに気持ちが楽であることでしょう。

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 あの3.11からの数日間、私は日記にこんなことを書き記していました。


(石巻、幼稚園バスで姉妹を亡くした子たち。2011.11私が撮った写真です。)

3月11日(金)

 ・・・会社内メチャクチャ。大崎タイムス社屋潰れる。

 ろうそくをつけて20:00就寝。

 余震何十回もあり。

 寒くもあり不安な一夜。

 湯たんぽ活躍

 (この日、津波が発生したことはわかったが、海岸部でまさかあのような悲劇が生じているとはまだ知ることができなかった)

3月12日(土)

 食べ物はジャガイモふかし、冷凍そばパン、菓子類

 ・・・津波は全国で発生。

 死者は千人以上の大変な地震となった。

 父の所に行く。

 寒くて寝られなかったらしい。

 町内会より炊き出しのおにぎり二個が届けられていた。

 北浦(兄夫婦)も被害ひどくゆうべは車で寝たとのこと。

 夕方正夫さん(娘の夫)仙台からピストンバスで戻る。

 携帯は使えなくなっている。

 「おてんとさん」に一時間半並んでお菓子(しかない)や練炭を買う。

 ガソリン僅少。

 (まだ津波の甚大さ、原発事故などを知ることができなかった)

3月13日(日

 食べ物は、冷凍そばパン、ぞうすい

 ・・・死者は一万人以上にもなるらしい。

 三陸の各市町は壊滅。

 百数十か所もの屋上に取り残されている人多し。

 福島原発が爆発。

 世界最大級の惨事。

 とも子宅(娘)、北浦(兄夫婦)、松ヶ崎(おば)、友人の母上などまわり水配達する。

 北浦のビニールハウスから古い石油ストーブ見つかり借りる。

 父へ持っていく。

 (この古い石油ストーブがなければ父はあぶなかったと思う。私たちがストーブを入手したのはこの二日後だった。それまで湯たんぽだけだった。水は長期間断水だったが、自宅から16キロ離れた会社の水道が出たので、それを皆に配達していた)


 この後、毎日水配達、食料の物々交換などガソリンを極度に節約しながらぎりぎりの生活を送りました。

 電気が自宅に復旧したのは3月17日(木)、約一週間後でした。

 このときテレビを見て大きなショックを受けました。。。

 水が完全に復旧したのは3月25日(金)、約二週間後でした。

 この日久しぶりに入浴したら、ぬるいのにのぼせて「めまい」がしました。

 この年は7月半ばまで冷蔵庫を使うことをやめてみました。

 しかしその後挫折して現在に至ります。。。

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 あの日以来、毎年今日だけはテレビもラジオも大震災の特集です。

 そして明日からは、台風一過のごとく、ピタッと別なニュースや番組に切り替わります。

 私たちも同じです。

 あの天災も原発事故も、無意識のうちに「忘れない」から「忘れたい」に変わってきました。

 ですから為政者に今なお深刻な原発放射能の危険が隠蔽され、復興の課題が軍国化やら賑やかなオリンピックやらの課題にすり替えられても、何とも思わなくなってきました。

 実は私たちは、嘘でもいいからそうしてほしいと無意識に願っているのかもしれません。。。

 もっと情けないことがあります。

 あの日、原発というものへほとんどの国民があれほど恐怖を覚えたというのに、まさか原発再稼働がこれほど堂々と推進されることになろうとは。。。

 今が四年前なら誰も予想だにしなかったことでしょう。

 せめて今日だけは、四年前のあの日の気持ちを取り戻さねば、と自分自身強く思います。