10年前に買った内田樹さんの『寝ながら学べる構造主義』はとてもわかりやすく書かれていますが過去何回も読み返しています。もともとの「構造主義」が私には難しいせいですね〜。これじゃ『寝ながら忘れる構造主義』になっちゃいそうですが、何度も読みたくなるのがこの本の良書たるゆえんですね。
昨晩「まえがき」をあらためて読んでみたら面白いことが書いてありました。
無知とは「知らない」ことではない、「知ろうとしない」ことであるというのです。
たしかにこれは言いえて妙です。私も政治のニュースになるとテレビの前を離れますし。。。
面白いことがもうひとつ書いてありました。
難解な構造主義が研究しているのは、他ならぬ「私たち凡人」の日々の営みの本質的なあり方だということです。
「世界」とは結局「私たちの日常生活そのもの」であると言えそうです。
なんか「そのまんまの私たち(庶民)」ってスゴイな〜と思ってしまいました。
『寝ながら学べる構造主義』内田樹
まえがき
・・・なぜ、私たちはあることを「知らない」のでしょう?
なぜ今日までそれを「知らずに」きたのでしょう。
単に面倒くさかっただけなのでしょうか?
それは違います。私たちがあることを知らない理由はたいていの場合一つしかありません。
「知りたくない」からです。
より厳密に言えば「自分があることを『知りたくない』と思っていることを知りたくない」からです。
無知というのはたんなる知識の欠如ではありません。
「知らずにいたい」というひたむきな努力の成果です。無知は怠惰の結果ではなく、勤勉の結果なのです。
嘘だと思ったら、親が説教くさいことを言い始めた瞬間にふいと遠い目をする子どもの様子を思い出して下さい。
子どもは、親が「世間話モード」から「説教モード」に切り替わる瞬間をしっかり見切って、即座に耳を「オフ」にします。教師に対しても、バイト先の店長に対しても同じです。子どもは「大人の説教」をひとことでも耳に入れないために、アンテナを張り巡らし、「説教」の兆候がないかどうか、不断の警戒を怠りません。たいへんな努力だと思いませんか?
もしも子どもが単に不注意で怠惰であるだけだったら、「ついうっかりして、親の説教を最後まで真剣に聞いてしまった」ということだって起こってよいはずです。でも、そんなことは絶対に起こりませんね。
あることを知らないというのは、ほとんどの場合、それを知りたくないからです。
知らずに済ませるための努力を惜しまないからです。
ですから「私たちは何を知らないのか」という問いは、適切に究明されるならば、「私たちが必死になってそこから目を逸らそうとしているもの」を指示してくれるはずです。
(中略)
構造主義という思想がどれほど難解とはいえ、それを構築した思想家たちだって「人間はどういうふうにものを考え、感じ、行動するのか」という問いに答えようとしていることに変わりはありません。
ただ、その間いへの踏み込み方が、常人より強く、深い、というだけのことです。
ですから、じつくり耳を傾ければ、「ああ、なるほどなるほど、そういうことって、たしかにあるよね」と得心がゆくはずなのです。
なにしろ、彼らがその卓越した知性を駆使して解明せんとしているのは、他ならぬ「私たち凡人」の日々の営みの本質的なあり方なのですから。
まえおきは以上で終わりです。では、本論に入りましょう。
参考(構造主義に関する記載がある過去ブログです)
→オートファジーと未開社会
→深沢七郎「庶民烈伝」より
→犬の匂い地図
→「熱い社会」「冷たい社会」
→トンイの国とわが郷土
→合気道とは愛である
→「水あめ」のような?宇宙