最初から「最後の手段」

 私もそうなので気をつけなくてはいけないことなのですが、人は最初から「最後の手段」を使うというのが習性のようです。だから危ない物は作っちゃまずいと私は思うんです。でも無条件に科学や技術の発達を制約してはだめだという学者のほうが圧倒的に多いんですがどんなもんでしょう?

 その最悪の例が「原爆」ですね。作ったとたんに広島と長崎に落としたわけでしょう。そしてその延長が「原発」ですね。廃棄物のことも地震のこともろくに考えないでいつのまにか日本中原発だらけ。

 原爆と原発の類似点はどちらも効率がいちばん高かったから。つまり当時の究極の兵器であり究極の発電所とみなされていたわけです。どちらも抱える問題が大きすぎて本来ならどうしようもない場合の「最後の手段」であるべき物のはずなんですが・・・

 なぜこのようなことになるかという見本のような話があります。
イラク戦争で名をはせた「ネオコン」の師匠格が著した文章です。

ロバート・ケーガン
「ネオコンの論理」より

 ヨーロッパで現在脅威に対する許容度が高いのはなぜか、アメリカに比較して力が弱いからだと考える方がわかりやすい。

 強さの心理と弱さの心理は簡単に理解できる。
ナイフしか持っていない者は、森をうろつく熊を許容できる危険だと考えるだろう。この危険を許容しないのであれば、ナイフだけを武器に熊と戦うしかないが、この方法の方が、その場に伏せて熊が襲ってこないように願っているよりも危険が大きいのだから。

 しかし、同じ人が銃を持っていれば、許容できる危険についての見方が大きく変わるだろう。戦うことだってできるのにかみ殺される危険をおかす必要があるだろうか。

 つまりこの説は「究極兵器『銃』を使わない手はない」そこからすべての理屈が立てられているんですね。逆の(怖い)発想なんです。

 究極の兵器を持ち腐れにしないで有効に使え、強い者はその権利があるのだという、この人が逆の立場だったら許容できないようなことを恥ずかしくもなく開き直って話しているわけで、これでも学者だそうですから学問に対して不信感を持ってしまいかねません。

 イラク戦争当時、この説に賛同した日本人評論家はとてもたくさんいました。今でも原発を推進しようとしている人たちがそれと重なる気がしているのは私だけでしょうか?