みんな自営のサラリーマン

 私はこんな経済社会がいいと思ってるんです。「経営者は自営の精神で、サラリーマンは職人の精神で」もっと進むと「すべての人がみんな自営」そうすると今の商いはどう変わるでしょうか?

私が小さかった頃

 自営が成り立っていた時代は実に豊かでしたよ。それは私が子どもだった頃、昭和40年頃までですね。

 私の家もそうでしたが近所はみんな自営、食料品店、肉屋、魚屋、米屋、酒屋、自転車屋、中華そば屋、寿司屋、時計屋、ばばこ屋、産婆、薬屋、本屋、郵便局、電機屋、カメラ屋、おやき屋、医院、農家、建具屋、タイル屋、文房具屋、お寺、床屋、これらがすべて私の生家の100メートル以内にあったんです。

 車も少なかったからガキ大将を先頭に年齢差10歳くらいの子どもたちで毎日創意工夫の冒険遊びです。親はほとんど自営ですから、みんな子どもたちをそれとなく見守ってくれてました。というか、しょっちゅう怒られてばっかりいました。このころの思い出は書いたら切りがありません。まさに人生の黄金時代でした。

 いじめもありましたが、どこかでみんなヒーローになれた、つまり足が速い奴は運動会で、腕力が強い奴は遊びの中で、成績のいい奴は学校で、貧乏な奴はガキ大将で、とほとんどの子はどこかでプライドを持てたんです。で、今のように陰惨なことはなかったのです。

 昭和40年頃から隣の市に大きな誘致工場ができて勤め人が多くなっていきました。店も農協スーパーができてから閉めるところが増えてきました。ヨークベニマルがきてからは自営は壊滅でした。それと一緒に地域の溌剌さも失われ、仕事=勤めという時代に入り今に至っています。

 親も子どもたちに「自営なんかするな、いい学校に入って、大きい会社に勤めてくれ」という気持ちになっていきました。学歴志向、大会社サラリーマン志向、求められる能力は競争力と効率的な頭つまり「使われる能力」だけ、それが私たちの世代です。

アイアコッカーが叱られた話


 自営の成り立つ社会はとても生きやすい、とイタリアのことを褒めていた記事を読んだことがあります。こんな話もありますよ。あのフォードの全盛期を創りながらも社長に嫉妬され追い出され、その悔しさをバネに倒産寸前のクライスラーを立て直したアイアコッカーという人がいます。以下、この方のエピソードです。

 彼がフォードマスタングという超人気の車を開発させ大成功をおさめていたフォードの副社長時代のことです。イタリアに住む父をニューヨークによんでマスタングにのせて観光しながら自慢しました。「オヤジ、おれもついにビッグになったぜ!天下のフォードの副社長だ。この最高人気の車もあれが創ったんだ!」

 そうしたらオヤジがぶすっとして言うんです「バカヤロー、おれはイタリアでハンバーガー屋を自由気ままにやっている。誰にも使われずにな。お前はいつまで嫌いなボン社長の下で使われているつもりなんだ、アホ!」(少し脚色した言い方をしています。あしからず)

 これにはアイアコッカーもぐうの音も出なかったと書いていました。父上に独立心旺盛なイタリア人気質を感じます。何で読んだのか、一時図書館であれこれ探したんですが見つかりませんでした。でもとても私の記憶に残っている話なんです。

 あ〜長くなってしまいました。今や洪水のような情報の中でこんな長文は読む人はいないでしょう。ごめんなさい。で、もう少し・・・

社内自営業の可能性

 自営そのものは復活できなくても、自営の精神を会社仕事に生かせる方法はあるのではないでしょうか?そんなことを日々考えながらちっちゃな会社を経営してるんです。

 実は今朝、冗談で社員のミーティングで話したことがきっかけとなってこの話を書くことになりました。というのはこんな話からでした。私が「facebookやtwitterを我が社でも積極的に利用する方針なんだけど、個人とビジネスがかぶるので、ユーザーや取引先とも今までと違った関係とか注意点とか可能性とか出てくるよね、みんなどう思う?」

 あれこれみんなで話しているうちに私がヒョイと思いつき、冗談で話しました。「これからは何を買うかより、同じ物でも誰から買うかというのもキーになるよね。なにせ会社のお付き合いから会社の中の個人というお付き合いが増えるからね」

 「それじゃこんなのどうだろう?たとえば我が社の製品をT君から買えばT君手造りのマシンに入れて納品しますとか、O君から買えばホームページ制作までしてあげますとか、個人ならではの付加価値を加えて売ったらおもしろいよね」

 そう考えるとこれって社内自営業に近いんじゃないか、一人一人が会社という屋根の中に店を構える自営業者というコンセプトで独創の可能性が拡がるんじゃないか、と思ったのです。単なる個人営業ということではなくて、各人の商品自体がそれぞれ独創性を備えているということなんです。

買うときには使えている

 こんなのもありますよ。昔の商店街ではあまり「お客様」とか「販売店様」とかへりくだった言い方はしませんでした。それは売るだけ、買うだけいう一方通行ではなくて相互に売り買いがあったし、そもそも商売は価値の対等な交換にすぎないという意識を共有していたからです。

 それじゃなぜ今はやたらに「様」づけになったのか?それは売るだけの人と買うだけの人に分離したからですね。というより会社という抽象的なものが売りを担い、従来通り個人が買うというふうになったからだと思うんですよ。会社では奴隷のように「お客様」と言って、買い手になると王様になるんです。今の私たちは。どちらも顔があんまり見えないんですね。ちょっといびつ?

 これを解消する売り方こんなのはどうかな?と、また今朝思いつきを話したんです。「製品と運用と保守を一体化できないかな?」「たとえば我が社のソフトウェア製品はユーザーに真のメリットを提供するものです。ですから人がマスターしないと使えません。それにはまず全国にある我が社の研修センターに担当予定の社員さんを1名派遣していただきます。そこである期間実践指導を行って、使えるようにしてはじめて取引成立です。もし中途解約の場合は授業料をいただきますが、たいしたご負担にはならないはずです。」

 「ユーザーとトレーナーは末永いフォロー関係で結ばれます。会社のしくみがそれをバックアップしていきます」「ユーザーがトレーナーを選ぶこともできますよ」こんなふうになると様とかへりくだった言い方したらかえってよそよそしいので、「さん」づけでよびあう対等な関係になっていくでしょう。

自営の価値観が人生を豊かにする

 自営の良さは顔が見えること、だからモラルがしっかりしている。それと売り手も買い手も対等なこと、あたりまえですが価値の交換こそ商売なので。最大の特長は仕事に自分の人生を重ね合わせることができること。それを見て子どもは仕事というものの喜びを感じられること。

 お年寄りと子どもだって自営できるかもしれませんよ。

 「お年寄りと子どもだけの商店街」

 こんなすばらしい自営が成り立たない国は「効率教」の蔓延で滅びてしまうに違いありません。