高校生の頃、本屋でキョロキョロまわりを見てから開いたものです。奈良林祥著「How To Sex」。このへんから始まったのでしょうか?「How To 」だけの社会は。
「そう、そうなんだよな!オレの言いたいこともさ。」という記事が新聞に載っていました。
ソニーの経営方針説明会で新社長のお話を聞いた感想です。
朝日新聞4月22日
「HOW TO」病の日本 安井孝之
「自由闊達(かったつ)ニシテ愉快ナル理想工場ノ建設」これは、井深大氏らが1946年にソニーを設立した際に掲げた言葉だ。そのソニーが今、経営不振に陥っている。今年3月期決算は過去最大の5200億円の赤字になる。〈なんとか会社を良くしたい〉。4月に社長になった平井一夫氏はそう思い詰めているに違いない。
そんな思いを聞こうと、12日の経営方針説明会をのぞいた。平井氏は、大写しになったディスプレーを前に、「ソニーを変える。ソニーは変わる」「ソニーが変わるのは今しかない」と語った。だが、40分の熱弁を聞いて、「愉快ナル」商品が次々に出てくるに違いないというワクワク感を、実は私は持てなかった。
なぜだろうか。
スピーチは現状を分析し、取り組むべき課題を整理した。テレビ事業なら13年度までに固定費を60%削減する。14年度にはグループ全体で営業利益率5%以上という数字も示した。「手段」は具体的ではある。
だが、黒字企業になるとして、どんな会社に生まれ変わるのか、という目標、理念は明確には語られなかった。最後の1分に入り、早口の平井氏が「世界中の人々の好奇心を刺激し、お客さまに感動してもらえる商品やサービスを提供するのがソニーの目指すゴール」と語ったが、その発言は多くの「手段」に埋没した感があった。
「黒字化に向けた具体的な施策を説明しないと市場関係者もメディアも評価しない」。ソニー幹部は「手段」を多く語った理由を説明する。
大赤字を抱えているのに夢やビジョンを語っている余裕はない。とにかく具体的な施策だ――。そんな思いが多くの企業にも政治にも、それを取り巻く市場や有権者にもある。だが、これは組織や人が陥りやすい「手段の目的化」という病ではないだろうか。
イノベーションを生み出す経営について研究する野中郁次郎・一橋大学名誉教授は「今の日本の経営者は『HOW』ばかりを語り、『WHAT』『WHY』をあまり語らなくなっている」と話す。
自社は何を目指すのか。存在価値はどこにあるのか。人ならば自らに問い続ける難問から会社も逃れられない。手段ばかりを議論し、実行するだけでは、社員全体が一丸となる持続的な成長にはつながらない、という指摘である。
米アップルの創業者、故スティーブ・ジョブズ氏は発表会の場などでアップルが目指す方向をこう示した。
「我々の心を高鳴らせるのはリベラルアーツ(教養)に結びついたテクノロジーであり、人間愛と結びついたテクノロジーである」
その言葉の中に「HOW TO」はどこにもない。
「とにかく具体的な施策だ――。そんな思いが多くの企業にも政治にも、それを取り巻く市場や有権者にもある。」
こればっかしですもんね。。。社会も政治も経済も。。。いや教育まで。。。
「てっとりばやく品質が良く性能が高いブツ(人間)を量産しよう!」という教育方針にあらがえる風潮ではなくなりつつあります。
なにせ「もの造り」だけが得意な国なので、「人」まで工業製品のように造ろうとします。
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そして高性能な人々が官僚になり、大会社に入り、エリート幹部やら(雇われ)社長になっていく。。。
大会社の社長とはいっても、「株主」という顔の見えない有象無象に仕える神官みたいなものです。
『WHAT』や『WHY』を語ったら、あっというまに引きづり下ろされます。
彼らに思想の自由はないのです。
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かくして、原発は決してなくならず、リーマンの後釜も引きを切らず。。。
ただただ「利益」と「効率」だけを金科玉条にしていればよし。
思想とか人間性とかアートとか、そういったものは「趣味」の世界。なくてもどうってことないと思っている人だらけです。
私たち羊たちにとって怖いのは、羊飼いを気取る多くのエリート企業家や政治家が無意識に歩んでいる人生です。
それは、『WHAT』や『WHY』という文学的、哲学的なことを考える言葉を日々失っていく人生です。
羊が抗おうにも、羊飼いは文学的言葉を失っているから通じようがないのです。
ということは、今や、小さい会社(上場などできない)や自営にしか『WHAT』や『WHY』を語る自由はない。
そんな社会、いや世界になっているということです。
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一昨日は私の誕生日でした。59歳になりました。
facebookでお祝いのコメントを数人からいただいたのですが、お返しのコメントにふとこんな言葉を書いてしまいました。
「・・・ありがとうございます!第二の思春期、あれこれ迷い中です。・・・」
言葉というのは不思議なものです。
突然宇宙から降ってきます。
それが「種」のように、やがて「芽」を出してきます。
丁寧に育てれば、やがて「花」が咲きます。
「思春期」という言葉も降ってきたわけです。
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誤解されると恥ずかしい言葉でもあります。それで言い替えるとこうなります。
第一の思春期は「『性』への惑い」、第二の思春期は「『生』への惑い」
と勝手に解釈し、その考えを「芽」としました。
そしてこの「芽」を大事に育てなければいけないと思うのです。
なぜなら、『How to』の時代を担ってきたのは私たちの世代であり、『WHAT』や『WHY』を失ってきたのも、他ならぬ私たちの世代であるからです。
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さて、私の勝手な解釈を延長すると「思春期」の定義はこうなります。
第一の思春期(二十歳の前)とは、人が「生き物」→「人間」→「社会人」→「会社人」となっていく変化である。
第二の思春期(六十歳の前)とは、人が「会社人」→「社会人」→「人間」→「生き物」となっていく変化である。
そして、どちらの思春期もきちんと向き合っていかないと、必ずいつか課題に直面させられる。
今の世界は、「会社人」としての階層だけが突出したアンバランスな世界となっており、自分で自分を苦しめている。
そのバランスを回復していくのは、第二の思春期と上手に付き合い、来た道を逆にたどって「人間」「生き物」の階層に戻った人々だ。
だからこそ、「年より」には価値があるのだ。
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私たちの世代は、「人間」「生き物」としての感性や思索を豊かにし、それを社会のバランス回復に役立てなければならない。
それは、同じ世代、若者、既存の企業と、何らかの「共創」をする「起業」を通して行うことが望ましいことだ。
サラリーマンであれ、自営であれ、私たちは「第二の思春期」を経た後こそ、「本来のしごと」ができる。
社会にとって、それはとても必要なことだ。
60歳という第二の成人式を前にした59歳の誕生日、このような思いを強くしたわけです。