千日聴聞行

 お盆は実にありがたい行事です。お仏様たちが彼岸の住人であるのにわざわざこの世に来てくれます。お仏様たちは線香をあげてもらいに来るのではない、生きている家族、親戚の和のために盆棚に戻ってきてくれるのだ。そんなふうに思える今年の盆です。
 我が家、といっても核家族、一人暮らしの父が住む実家で盆棚をつり、4日間ほどのお盆イベントに家族があちこちから集まりました。

 さて盆の主役はやはり長老、88歳目前の父があれこれ采配します。近くにある里山の散歩、畑仕事、食事が主な日課の父が張り切るのは正月とお盆です。

 私の下の娘は、福祉の職場で常に老人と接しているせいか、とても年寄りの聞き上手です。今年も例年のごとく、戦時中の話、その後のシベリア抑留の話が延々と続くのを、適当に合づちをはさみながら真剣に(?)聴いてくれています。

 東京から来た私の姉が父に「もう何回も聞いてるよ」と言ったら、父がムッとしていました。本人は毎回はじめて話しているつもりのようです。

 実はなにを隠そう、この私は毎晩のように会社帰りに父のところに寄っていくのですが、ほとんど毎回この話を聴かされ続けているのです。

 天台宗の修行で「千日回峰行」というものがあるそうですが、私はこれをもじって「千日聴聞行」と名づけました。天台宗の修行と比べればなんのそのです。

 で、思うのはこういうことです。人生の晩年にかかった今、心からあふれ出る言葉、思い出のほとんどが戦争、抑留の足掛け5年間のできごとだけとは・・・。それほどまでに強く深く焼きついた父の、いや父の青春時代の体験をその三分の一でもわがことと感じたことがあっただろうか・・・・と。

 そして私が晩年になったとき、父のようにあふれ出るように話し続けることがあるとしたら、それはいったい何なのだろうか、ということです。