マザーテレサは晩年こう言ったそうです。-言葉が多すぎます-
もし言葉を失ったとしたら、人は何をどのように判断するのでしょう。そのとき論理とか理屈とかの根っこにある、とても大事なものが姿を現すのではないでしょうか。
「言葉の迷路にはまり込む・・・」という歌詞の歌がありました。私はときどき人間というものがこんなふうに思えます。「言葉というこんがらかった網と日がなたわむれている猿たち」と。
どんなときに感じるかって? たとえば最近孫さんと対談したクリティカルシンキングの売れっ子さんが「子ども達の幸せのために原発を推進すべし」という言葉を堂々と主張したり・・・、あるいは元気のいい人たちが「人類の平和のために核兵器を持つべし」とか・・・。
言葉というのは、言葉に任せっぱなしだとどこに行くか予想がつきません。出発点から遠く離れて反対側にいってしまうこともしばしばです。多くの人が出発点を忘れて言葉の道筋だけを見ているような、そんなむなしさを原発問題以来強く感じることがあります。
そんな気持ちの時にはこんな詩に癒されます。
茨木のり子
「倚りかからず」もはや
できあいの思想には倚りかかりたくないもはや
できあいの宗教には倚りかかりたくないもはや
できあいの学問には倚りかかりたくないもはや
いかなる権威にも倚りかかりたくはないながく生きて
心底学んだのはそれぐらいじぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ