偽善家、露悪家、日和見家

 すべての人間はこの三つに分けられるのではないでしょうか?どれをとってもあまり好かれる言葉ではありません。でも、人の「考えの傾向」というものは、つまるところ、この三要素の組み合わせではないでしょうか。今日はその妄想的暴論を書こうと思い立ちました。
 以前、すべての人間は「馬鹿」「アホ」「まぬけ」の三つに分けられるのではというトンデモ論を書きました。
 http://d.hatena.ne.jp/kawasimanobuo/20111030/p1

 その後、文学的迷研究?を独学で進めていったところ、もう一つの分類ができることを確信いたしました(笑)。

 「偽善家」「露悪家」「日和見家」の三つです。

 なにせ、かの有名な文豪「夏目漱石」が先鞭を付けた人間分類理論です。

 漱石先生は「三四郎」の中で、広田先生の台詞を通して、「露悪家」とは自分の創作した名称であることを述べ、さらに人というものを「偽善家」と「露悪家」に二分しています。

 私の場合は、これに「日和見家」を加えた三分類であります。

 それでは最初に、漱石先生の「三四郎」よりそのくだりを読んでみることにしましょう。

すると広田先生がまた話しだした。――

 「おっかさんのいうことはなるべく聞いてあげるがよい。近ごろの青年は我々時代の青年と違って自我の意識が強すぎていけない。

 我々の書生をしているころには、する事なす事一として他(ひと)を離れたことはなかった。

 すべてが、君とか、親とか、国とか、社会とか、みんな他(ひと)本位であった。それを一口にいうと教育を受けるものがことごとく偽善家であった。

 その偽善が社会の変化で、とうとう張り通せなくなった結果、漸々(ぜんぜん)自己本位を思想行為の上に輸入すると、今度は我意識が非常に発展しすぎてしまった。昔の偽善家に対して、今は露悪家ばかりの状態にある。

 ――君、露悪家という言葉を聞いたことがありますか」

 「いいえ」

 「今ぼくが即席に作った言葉だ。君もその露悪家の一人(いちにん)――だかどうだか、まあたぶんそうだろう。与次郎のごときにいたるとその最たるものだ。

 あの君の知ってる里見という女があるでしょう。あれも一種の露悪家で、それから野々宮の妹ね、あれはまた、あれなりに露悪家だから面白い。

 昔は殿様と親父(おやじ)だけが露悪家ですんでいたが、今日では各自同等の権利で露悪家になりたがる。

 もっとも悪い事でもなんでもない。臭いものの蓋(ふた)をとれば肥桶(こえたご)で、見事な形式をはぐとたいていは露悪になるのは知れ切っている。

 形式だけ見事だって面倒なばかりだから、みんな節約して木地(きじ)だけで用を足している。はなはだ痛快である。天醜爛漫(らんまん)としている。

 ところがこの爛漫が度を越すと、露悪家同志がお互いに不便を感じてくる。その不便がだんだん高じて極端に達した時利他主義がまた復活する。

 それがまた形式に流れて腐敗するとまた利己主義に帰参する。つまり際限はない。我々はそういうふうにして暮らしてゆくものと思えばさしつかえない。

 そうしてゆくうちに進歩する。英国を見たまえ。この両主義が昔からうまく平衡がとれている。だから動かない。だから進歩しない。イブセンも出なければニイチェも出ない。気の毒なものだ。自分だけは得意のようだが、はたから見れば堅くなって、化石しかかっている。……」

 三四郎は内心感心したようなものの、話がそれてとんだところへ曲がって、曲がりなりに太くなってゆくので、少し驚いていた。すると広田さんもようやく気がついた。

 「いったい何を話していたのかな」

 「結婚の事です」

 「結婚?」

 「ええ、私が母の言うことを聞いて……」

 「うん、そうそう。なるべくおっかさんの言うことを聞かなければいけない」と言ってにこにこしている。まるで子供に対するようである。三四郎はべつに腹も立たなかった。

 「我々が露悪家なのは、いいですが、先生時代の人が偽善家なのは、どういう意味ですか」

 「君、人から親切にされて愉快ですか」

 「ええ、まあ愉快です」

 「きっと? ぼくはそうでない、たいへん親切にされて不愉快な事がある」

 「どんな場合ですか」

 「形式だけは親切にかなっている。しかし親切自身が目的でない場合」

 「そんな場合があるでしょうか」

 「君、元日におめでとうと言われて、じっさいおめでたい気がしますか」

 「そりゃ……」

 「しないだろう。それと同じく腹をかかえて笑うだの、ころげかえって笑うだのというやつに、一人だってじっさい笑ってるやつはない。

 親切もそのとおり。お役目に親切をしてくれるのがある。ぼくが学校で教師をしているようなものでね。実際の目的は衣食にあるんだから、生徒から見たらさだめて不愉快だろう。

 これに反して与次郎のごときは露悪党の領袖(りょうしゅう)だけに、たびたびぼくに迷惑をかけて、始末におえぬいたずら者だが、悪気(にくげ)がない。可愛らしいところがある。

 ちょうどアメリカ人の金銭に対して露骨なのと一般だ。それ自身が目的である。それ自身が目的である行為ほど正直なものはなくって、正直ほど厭味(いやみ)のないものはないんだから、万事正直に出られないような我々時代の、こむずかしい教育を受けたものはみんな気障(きざ)だ」

 ここまでの理屈は三四郎にもわかっている。けれども三四郎にとって、目下痛切な問題は、だいたいにわたっての理屈ではない。実際に交渉のある、ある格段な相手が、正直か正直でないかを知りたいのである。

 三四郎は腹の中で美禰子の自分に対する素振(そぶり)をもう一ぺん考えてみた。ところが気障か気障でないかほとんど判断ができない。三四郎は自分の感受性が人一倍鈍いのではなかろうかと疑いだした。

 その時広田さんは急にうんと言って、何か思い出したようである。

 「うん、まだある。この二十世紀になってから妙なのが流行(はや)る。利他本位の内容を利己本位でみたすというむずかしいやり口なんだが、君そんな人に出会ったですか」

 「どんなのです」

 「ほかの言葉でいうと、偽善を行うに露悪をもってする。まだわからないだろうな。ちと説明し方が悪いようだ。――昔の偽善家はね、なんでも人によく思われたいが先に立つんでしょう。

 ところがその反対で、人の感触を害するために、わざわざ偽善をやる。横から見ても縦から見ても、相手には偽善としか思われないようにしむけてゆく。

 相手はむろんいやな心持ちがする。そこで本人の目的は達せられる。偽善を偽善そのままで先方に通用させようとする正直なところが露悪家の特色で、しかも表面上の行為言語はあくまでも善に違いないから、――そら、二位一体というようなことになる。

 この方法を巧妙に用いる者が近来だいぶふえてきたようだ。きわめて神経の鋭敏になった文明人種が、もっとも優美に露悪家になろうとすると、これがいちばんいい方法になる。血を出さなければ人が殺せないというのはずいぶん野蛮な話だからな君、だんだん流行(はや)らなくなる」

 と、ここまで書いてというか引用して、さらに読み返してみたら、ある人がブログに書いていた記事を思い出しました。(上の太字にした箇所に合いそうな・・・)

 長くなったので、今日はそれを紹介して終わりにします。続きを乞うご期待!

清水国昭ブログ
「しみずくにあきの多毛作倶楽部」より

2012-01-11 09:36:48
kuniaki-shimizuの投稿
http://ameblo.jp/kuniaki-shimizu/entry-11132714936.html

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年頭のカミングアウト。今年は禁断のチカラ、使います。


2012年。



今年は、いや今年も、できる限り
東日本の復興支援。



そして、
これまでの経験を活かした
災害に強い防災体質にする啓発事業のあれこれに、
あちらこちらと走り回る年になりますね。



年頭にあたり,


私のモチベーションについて
ちょっとあからさまに
カミングアウトしておきましょう。



ちょっと見、世の中に良いことをしているので
これは私の優しさや慈悲の心が
そうさせているかに見えるかもしれませんが、


違います。



私は、思いやりや慈しみよりも強い感情、
怒り、憎しみ、哀しみに突き動かされて
この震災の支援に奔走している。



そう、はっきり分かりました。



大好きな自然が、


みんなを守るべき国家が、


助け合うべき国民が、



裏切って
騙して
見捨てている現実に、
落胆して、憤っているのです。




これまで、
大成功した経営の神様みたいな人に
憧れて、あやかりたくて、


その爪のアカでも、と学んできましたが、

成功した人は皆一様に、


人のため、みんなのため、
奪うより与える、出るは入る、
私利より利他、



と唱えます。



その成功のプロセスで
そのように努めてきたから
今日の成功がある、


のだと思い込んでいたのですが、

もしかしたら・・・。



これまでそれと真逆の、
えげつないやり方してきた人たちだから
成功した暁に、反省を込めて、延命のために、
今度はいいことばかりを
唱え始めているのでは・・・。



おもいやり、優しさよりも
はるかに強いエネルギーは
怒りや悔しさや悲しさ。



今は嫌っているかもしれないけど
物欲や名誉欲などがバネとなって
今日の成功をもたらしたのだと、


正直に言ってくれる人は
少なかったですね。



既に成功しちゃってる人の
反省の心構えを、


未だ成功なんて程遠いところにいる
私たちが有難く受け止めて、


善人修行をしていたところで
いつまでも道は開けてこないのでしょう。



物事を成し遂げるエネルギーは


何くそっ、ちくしょー、負けるもんかっ、
絶対にやってやるっ、


などといった、エグい想いの強さです。




そして成功した暁には
みんながニコニコ笑顔で抱き合っている。



そこを目指してはいるのですが、


そのプロセスにはとてつもない
エネルギーがいるので、



私はもう禁断のチカラ、怒り、悔しさ、
悲しさをあらわにして、そのチカラを借りて


みんなの大成功のために
突き進もうと決めました。




すでにご存じのように
私はまったく善人ではありません。


善人ぶりっ子も嫌いです。



醜い素顔をさらしつつ、
けれど終着の志は高く
バリバリと前へ進んでゆきます。



こんな私ですが、
今年もどうぞよろしく。

参考
 馬鹿、アホ、まぬけ
 夏目漱石の永遠の恋人