国って何?

 「新日本帝国株式会社」への第一歩「特定秘密保護法案」が一段落つきそうなので、次の「集団的自衛権」へ向けて少し舞台を盛り上げよう、ってなわけで「尖閣」「北朝鮮」のマスコミ露出度がこれからアップしてくるはずです。
 劇場型政治とはよく言ったものです。

 劇場とはテレビや新聞などのマスコミ。

 マスコミを脅かしたり利用したりして、尖閣や北朝鮮のニュースさえ加減していればいいんです。

 観客である国民は、任侠、お涙、祖国愛、まるで映画を見せられるように素朴な感情をコントロールされていきます。

 ナチスの宣伝相ゲッペルスの行ったことは、現代政治の世界でも今なお定石です。

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 ところが、第二次世界大戦の敵国海賊放送のように、「インターネット」の情報だけは国家指導者?でも制御できない目の上のたんこぶでした。

 そこで、米国資本の新日本帝国株式会社の役員会である「内閣」は、国家株式会社化に向けて、まず「特定秘密保護法案」によって「たんこぶ」を腐らせてしまおうとしたわけです。

 もちろん親分であり筆頭株主であるアメリカの指示に従ってではありますが。

 そしてお次は「集団的自衛権」がいよいよまな板にのってきます。

 最強の対米防衛兵器である(と私が思う)「憲法九条」の改悪がけっこう難儀なので、改悪より「骨抜き」にしちまえ!という戦法です。

 アメリカ資本の国家株式会社ですから株主には逆らえません。従わないと役員たちは首切りに会いますから。

  →内田樹の研究室より「特定秘密保護法案について(その3)」

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 右旋回の日本号は、どこに行き着こうとしているのでしょうか?

 どうも「新日本帝国株式会社」とは、限りなく「大日本帝国」に近い「グローバル企業国家」をめざしているようです。

 天皇を「名誉会長」に奉り、教育勅語を「社是」とし、モーレツ国家主義バイリンガル社員を養成し、経営戦略はアメリカに右習えの「選択と集中」一本で、「成熟よりも成長を」という考えのようです。

 株主利益のためなら、あらゆる理屈を付けて「戦争」にすら積極的に関わっていく。それはハイテク技術の武器を主力商品にできるという魅力に満ちあふれています。

 なんとも異様なのは、日の丸を掲げながら、その実アメリカへのさらなる隷属をめざしていることです。

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 私たちには「会社のために命をかけるモーレツ会社人」の時代がありました。

 その忠誠心を、会社構造にそっくり似せて「国家会社のために命をかけるモーレツ国家会社人」に置き換えようとは、実に合理的な戦法です。

 「ファイト一発!」「24時間戦えますか」のキャッチコピーには、その前にこんな語句が追加されることでしょう。勇ましい音楽とともに。

 「誇りある国のために、そして愛する家族のために!」

 まるで忠臣蔵を観るように人々は涙を流し、我が子、わが孫に昂ぶりながらこう言うことでしょう。

 いやその前に国軍兵士となった元自衛隊員に。

 「お国のために戦ってきてくれ!」

 そして米国の鉄砲玉として地球の裏側まで付いていくのです。

 涙を流すわれら年寄りはスタジアムのパブリックビューで観戦です。

 「がんばれ!やっつけろ!殺せ!」と。

 国民の羊がごとき忠誠心傾向を逆手にとったこの戦法(私にとっては実に残念ながら)うまく行きそうです。

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 でもいくら素朴単純な私たちだって、身近な子や孫が戦争にいったり、憎しみのテロが発生するとか、そんな状況がきたらきっと背筋が寒くなることでしょう。

 そのとき誰もが考えるでしょう。

 「そもそも。。。国って何?」
 「あれ、国民主権っていうのも何だっけ?」

 その時じゃもう遅いんです。1930年頃の日本のように。

 一庶民の私たちが、あまり「国」や「国家」っていう抽象的な言葉に夢中になりすぎちゃ危険すぎますよ。

 ぜひ、次のようなお話にも耳を傾けてみてください。

内田樹編集『9条どうでしょう』(ちくま文庫)より
小田嶋隆「三十六計、九条に如かず」

 ・・・S誌に目を通す。

 巻頭のコラム子は「日本人には、国のために死ぬ覚悟があるんだろうか」と言っている。

 ふむ。君たちの言う「国」というのは、具体的には何を指しているんだ?

 「国土」「国民」あるいは「国家体制」か? それとも「国家」という概念か?

 でないとすると、もしかしてまさかとは思うが「国体」か?

 はっきりさせてくれ。

 なにしろ命がかかってるんだから。

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 もうひとつ。

 「死ぬ」というのはどういうことだ?

 私の死が、どういうふうに私の国のためになるんだ?

 そのへんのところをもう少し詳しく説明してくれるとありがたい。

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 もうひとつある。

 「国のため」と言う時の「ため」は、実質的にはどういうことなんだ?

 防衛?それとも版図の拡大?経済的繁栄?あるいは「国際社会における誇りある地位」とか、そういったたぐいのお話か?

 いずれにしろ、「これも国のためだ」式の通り一遍な説明で「ああそうですか」と無邪気に鉄砲を担ぐわけにはいかないな、オレは。

 国家権力を掌握している人間の利益を守るために、国民が命を捨てねばならないような国があるんだとしたら、先に死ぬべきなのは国民より国家の方だということになるが、君たちはこの答えで満足してくれるだろうか?


 いよいよ始まった過激な右旋回に、私は小さな胸を痛めています。それでこんなブログを書いています。

 「誇り」という言葉は、一つ間違えば「うぬぼれ」「差別」「排他」と同義になります。

 ここはしっかり考えて自分自身の昂ぶりを制御していかなければなりません。

 もうすでに日本は世界トップクラスの防衛(殺戮)能力を保持しているのです。

 このままで十分すぎるはずです。

 「平和とは達成するものではなく、戦争の無い状態を維持することである」

 そうであるなら、すべての判断は「それは戦争に近づくことか、否か?」でなすべきと私は思います。

 レマルクは『西部戦線異状なし』で主人公にこう言わせました。

 「老人が戦争を始め、若者が死んでいく」

 老人とは私たち、若者とはわが子、わが孫たちのことです。

 私たちが考えるべき、未来に対する責任、無責任とはいったいどのようなものでしょうか?

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 →ノボ辞典「憲法九条」