「熱い社会」「冷たい社会」

 昨日ある業務ソフトメーカーの方と恒例の新年放談会をしました。その会社のソフトは毎年のバージョンアップで機能向上させていますが、画面はずっと昔から同じです。それは実にありがたいことでもあります。
 OSを「Windows8」に変えた方ならよ〜くわかっていただけると思います。

 仕事でパソコンを使う人は、バージョンアップで余計なことはしないでほしいというのが本音です。

 ところが、「Windows8」とやらは誰がどんな考えで設計したものやら、主に仕事に使っていた人にとっては「迷惑!」の一語です。

 知らない間にだれかが部屋に入ってきて、タンスや机の置き場所、さらに引き出しの中まで勝手に変えられたような、そんな感じです。

 「あ〜〜、俺はもうITについていけなくなってしまった。。。老兵は消え去るのみか」と絶望感すら覚えます。

 ですから日本の主要な業務ソフトが、バージョンアップを繰り返しても基本的な画面レイアウトを変えないことは、実に実にありがたい方針と思えるのです。

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 そんな話をしながら前夜読んでいた本の一部を思い出しました。

 うろ覚え、生半可な理解でありながら、いつもの悪い癖で「新年放談会」の席で皆に話してしまいました。

 それは今読んでいる小田亮著『レヴィ=ストロース入門』に書かれていたことでした。

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 自分なりの単純な解釈によるとこういうことです。

 (レヴィ=ストロースはじめ構造人類学者は未開社会を現代の西欧社会より遅れた社会とはとらえていませんが、便宜上「未開社会」と表現していきます)

 私たちの社会と未開の社会に優劣はない。

 それぞれの社会モデルが根本的に異なるのである。

 私たちの社会は「熱い社会」である。

 未開社会は「冷たい社会」である。


 「熱い社会」とは蒸気機関のような熱力学的な機械にたとえたものである。

 それは西欧などのごとく、歴史的変化や偶然的な変動を社会自体の発展の原動力とするような社会をいう。

 つまり(どうなろうとも)「変化」を無条件にくっつけていく社会である。


 「冷たい社会」とは時計などの工学的機械にたとえたものである。

 それは歴史的変化や偶然的な変動を無化し、始めの状態を保とうとする社会をいう。

 つまり「変化」についてナイーブであり、「変化」を吸収していく社会である。

 ソフトのインターフェースを(無理矢理)社会と考えれば、「Windows8」的発想は「熱い社会」的であり、くだんの業務ソフトは「冷たい社会」的です。

 熱い方は、「既存の使い勝手より目新しさを思い切り優先!」という「ひとりよがり」な感じがします。

 冷たい方は、「既存の使い勝手を優先し盲目的な時流追従はしない」という「冷静・慎重・人間的」な感じがします。

 ま〜〜、ITの仕事をしているくせに変化に対応するのが年々困難になり「IT弱者予備軍」に編入された私ならではの独断ではあります。

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 本から補足的な文章を引用したいと思います。

小田亮『レヴィ=ストロース入門』より

 「未開」社会は、「まだ歴史がない社会」ではなく、歴史ある社会が経てきた歴史以前の姿なのでもない。それは歴史を原動力とする社会とは異なるタイプの社会なのである。

 つまり、冷たい社会は、歴史なき社会ではなく、歴史を嫌悪している社会であり、歴史に抗する社会だというわけである。

 クラストルは、その著作『国家に抗する社会』において、南米のトビ・グアラニ社会の文化人類学的調査を通じて、「未開」社会は、まだ国家や歴史や余剰生産物の欠如した社会、それらをまだ知らない社会なのではなく、国家や歴史や余剰生産物を知ってはいるが(つまりもとうと思えばもつことができるが)、それらが形成されないように「未開」に留まっていることを選択した社会であり、「国家に抗している社会」なのだという。

 そして、そのような「国家に抗する社会」と、国家を形成する社会<「熱い社会」ないし歴史に取り憑かれた社会>とは異なるタイプの社会なのだとしている。

 本日は「Windows8」と「構造人類学」というトンデモつながりの話となってしまいました。

 でも書いてて思います。

 やはり私たちの社会の様々な「デザイン」は、私たちの「社会構造を表すアイコン」でもあるな〜、と。

 ですから、次のような文章にとても興味を覚えます。

上掲書「あとがき」より

 レヴィ=ストロースに倣って予言すれば、グローバリゼーションとそれに対抗する国民国家という、どっちも魅力的とは言いがたい二者択一を押しつけられている現代において、野性の思考によって想像された、もう一つ別の「想像の共同体」こそますます重要になっていくでしょう。