国は株式会社じゃありません。

 私たちは誤解しているのではないでしょうか?国は株式会社であり、首相はカリスマ経営者であるべきと。

 内田樹さんが「川内原発再稼働」について新聞のインタビューに答えた記事を読みました。

 これから日本全土で原発再稼働がなしくずしに進んでいくような気がして、私はやるせない気持ちでいっぱいです。

 「原発」を推進しようとするのは、「国」と「株式会社」を同一視した考え方があるからだと内田さんは語っています。

 インタビューから一部抜粋します。(読みやすいように小見出しを付けました)


(内田さんは思想家にして合気道師範)

株式会社の経営と国家の経営

 株式会社なら、四半期の収支が悪化すれば、株価が下がり、倒産のリスクに瀕します。

 だから、「百年先」のことなんか考えていられないし、考えることを求められてもいない。

 目先の利益確保があらゆることに最優先する。

 でも、国民国家の最優先課題は「いま」収益を上げることじゃない。

 これから何百年も安定的に継続することです。

 株式会社の経営と国家経営はまったく別のことです。

 原発推進派はそれを混同してしまっている。

なぜ目先の金だけを欲しがるのか

 国民が知恵を出し合ってフェアに分配し、活用すれば何世紀も生きているだけの「ストック」がある。

 なぜ、国土を汚染し、人間が住めない土地を作るリスクを冒してまで目先の金を欲しがるのか。

 それは原発推進派の人たちには「長いスパンで国益を考える」という習慣がないということでしか説明できません。

ナショナリストたちの関心

 福島の事故による放射能汚染で、日本は国土の一部を半永久的に失いました。

 でも、尖閣諸島では「国土を守れ!」と熱する人々も原発事故で国土が失われるリスクにまったく関心を示さない。

 それはナショナリストたちも「パイが大きくなる」こと以外に何の目標も持っていないからです。

 領土問題で隣国と競り合うのは、彼らの眼には領土もまた「パイ」に見えているからです。

 中国や韓国の「取り分」が増える分だけ、日本の「割り前」は減る。

 そういうゼロサムゲームで彼らは国際関係を捉えている。

 だから、国内における国土の喪失には特段の意味を感じないのです。

 原発を稼働すれば経済戦争で隣国に対するアドバンテージが得られると訊けば、この「ナショナリスト」たちは国土の汚染や国民の健康被害など「無視していい」と平然と結論するでしょうし、現にそうしている。

原子力は選択肢の一つに過ぎない

 石油は人類がある時点で「たまたま」選んだ選択肢の一つに過ぎません。

 原子力もそれと同じです。

 原子力がなければ、それに代わる何かを私たちは見出す。

 文明というのは人間の知性のそのような可塑性と自由度のことです。

 原子力がなければ滅んでしまうような文明は文明の名に値しません。

顔の見える共同体へ

 成長なき社会では、「顔の見える共同体」が基礎単位となることでしょう。
 
 地域に根を下ろした中間共同体、目的も機能もサイズも異なるさまざまな集団が幾重にも重なり合い、市民たちは複数の共同体に同時に帰属する。

 生きてゆくためにほんとうに必要なもの(医療や教育や介護やモラルサポート)は市場で商品として購入するのではなく、むしろ共同体内部で貨幣を媒介させずに交換される。

 そのような相互支援・相互扶助の共同体がポスト・グローバル資本主義の基本的な集団のかたちになるだろうと私は予測しています。

 百年単位の経済合理性を考えれば、それが最も賢いソリューションだからです。

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 「原発事故」も「津波」のことも、はたまた「戦争」も「忘れない」から「忘れたい」に変わってきたよな〜私たち。。。