アルキメデスの末裔

 お風呂で大発見をしたアルキメデス、裸で町へ飛び出しました。みんながよく知る逸話です。しかし、彼は「科学者の原罪」を最初に背負った人物でもあるようです。

 国際的な天文学者である池内了(サトル)さん著『ヤバンな科学』ではアルキメデスの別な逸話を紹介しています。そこには現代の科学者が陥っている根源的な問題がありました。

 以下、同書「科学者の倫理を巡って」の章から抜粋して記載します。読みやすいように勝手にタイトルをつけさせてもらいました。

 またまた長い引用になってしまいましたが、今もっとも考えなくてはならない重要な指摘がここにあると思い、頑張って手打ちしました。

 ちなみに、この章が書かれたのは今から12年も前、1999年11月です。


アルキメデスが発明した兵器

 歴史上、科学的知識を戦争の技術として具体的に応用した最初の人はアルキメデスだろう。彼は、故郷シラクサがローマ軍に包囲されたとき、非戦闘員である老人や子どもに手鏡を持たせて、彼が指定した曲線(双曲線)に沿って何重にも並ばせ、ローマの軍船がその曲線の焦点にきたとき、手鏡の反射光を一斉に帆に集中させて軍船を炎上させたという。

 また「シラクサの鉄の爪」と呼ばれた鉄製の大きな鉤を滑車にぶら下げ、ローマの軍船が近づいたとき、おおぜいの市民が滑車にぶら下がって鉤で軍船をつかみ上げたという話も伝わっている。

 ほかにも、巨大な石を放つ投石機や射程の短い槍を発射する弓など、アルキメデスが発明した思いもかけぬ武器がローマ軍を悩ませたようだ。テコの原理など力学や幾何学に通じていた科学者アルキメデスなればこそ可であった新しい戦争技術である。このとき、ローマ軍司令官マルケルスは「アルキメデス」を生きて捕らえれば莫大な賞金を与える」と布告した。自然哲学者の戯言といえども戦争に有効であることに気づいたからだろう。

科学絶対主義者だった

 とはいえ、アルキメデス自身は熱烈な愛国者ではなかった。彼は、王の頼みによって戦争の手伝いはしたが、そもそも科学的真理の探求にしか興味を持っていなかったと伝えられているからだ。そのことは、アルキメデスの最期に関する逸話からもわかる。

 町の空き地で円を描いて幾何学の問題を思索していたアルキメデスは、攻め込んできたローマの兵士に邪魔立てされ、「私が書いた円を荒らすな」ととがめたため、カッとなった兵士に刺し殺されたからだ。彼は争いから超然としており、善悪を超えた科学的真理は人間とは独立であると考えていたらしい。彼にとって戦争の技術の発明は、科学的真理の証明の一つの方法に過ぎなかったのかもしれない。

 アルキメデスの故事は、科学者の主観的意図はどうあれ、その成果は現実(戦争のみならず技術開発一般)の役に立つことを示しており、技術化した結果について無縁でいられないことを示しているように私には思われる。

アルキメデスの故事の再現

 第一次世界大戦における毒ガス兵器の開発や第二次世界大戦における原子爆弾の開発は、アルキメデスの故事の再現といえないでもない。科学者は、それが人殺しのための道具ではあっても、原理的に興味があり、世界で初めての発明であれば、それがもたらす結果を想像することなく開発に没頭してしまう傾向がある。

 常套の言い訳は、「私がやらなくても、いずれ誰かがやるのだから」であり、「責任は作った者ではなく、使った者にある」というものだ。「自然は倫理規範を持たず、科学は道徳と無縁である」と考えているためである。その意味で、科学者は科学研究の推進を無条件に肯定し、科学の利用の問題は社会が考えることであって、科学者の行為とは無縁のことと考えがちなのである。

 (中略)

今や科学は技術や社会と一体化した

 やがて科学の原理が技術を通して製品となって社会に流通するようになった。・・・

 ・・・そのような歴史は、原子核物理学の知見から原子力エネルギー(原爆・原発)の利用へ、化学の発展から石油化学工業への興隆へ、遺伝機構の解明から遺伝子工学の展開へと、二十世紀において何度も繰り返されてきた。と同時に、そのような科学と技術の結びつきがいっそう強くなり、その結果の社会や人間への影響は計り知れないくらい大きくなった。科学の、技術や社会との相対的独立性は昔話になってしまったのだ。

 (中略)

国家や企業と結びついてしまった科学

 その反語的例証は、「国威発揚の科学」だろう。・・・
 ・・・巨大加速器の建設を要求する際、ある科学者は、「この装置は、国家の安全を守る装置でありませんが、守るに足る国家にするでしょう」と述べた。

 実は、私は、最初この言葉をすばらしいレトリックだと思っていた。しかし、科学者自身が自らを国家の従僕と位置づけ、国威発揚に協力する意志を象徴的に表明したのだと解するようになった。

 科学者は、国境に閉じ込められない科学的知識の普遍性や国際性を強調しながら、結局は国家のためのものと自認するようになった、と考えたためである。

 むろん、科学のスポンサーは国家だけではない。企業がスポンサーとなって、科学にマーケットの論理が入り込むことにもなった。

 (中略)

最近の科学・技術に関わる大事件

 ・・・阪神淡路大震災。オウム騒動、高速増殖炉「もんじゅ」の事故、薬害エイズ、O157、東海村再処理工場の火災、使用済核燃料の輸送容器データ改ざん、山陽新幹線トンネル崩落など・・・

 これらの多くは科学者には関係がなく、技術の適用の問題といわれそうだが、内実を子細に見ればそうでないことがわかる。むろん、その各局面で科学者に問われていることは異なっているが、基本的な面で共通している問題がある。

科学教育に問題がある

 まず、科学教育に問題がある。現在の学校教育では科学教育をきちんと行う場は無に等しい。単に科学の知識を暗記させているに過ぎないからだ。本来の科学教育で教えられるべきなのは、科学技術には限界があり、「絶対」はあり得ないことを人々の合意とすることである。

 そのような科学教育や科学の姿を正確に伝える仕事を、科学者は自らの本務ではないとして怠ってきた。日本になかなか科学的精神が根づかない根本的な理由がそこにあると思っている。

 科学者は科学的な考え方を人々に涵養していく義務を負っているのだ。それに対して怠慢であったことが上記のような事件を引き起こした根本原因なのかもしれない。

御用学者の大罪

 逆に積極的に科学を「絶対」と思わせ、むしろ科学への信頼を落とす役割を演じてきた科学者が多い。実際、国や自治体の審議会に入って公共事業や許認可作業に関わってきた科学者のうち、自分たちが出した答申に問題があったと判明しても、自らの間違いを訂正した科学者はいない。「答申はしたが、実行は行政の責任である」として結果責任を取らないだけでなく、その内容の説明責任すら放棄しているのだ。

科学者の倫理規範とは

 私のいう科学者の倫理規範とは、「真実に忠実であること」、「間違いであると判明すれば、直ちに誤りを認め、訂正の措置をとること」という、科学者が日常の研究現場で行っているきわめて当たり前のことなのである。

 ・・・つまり科学者の倫理とは、日頃の科学研究のなかで従っている倫理規範を、社会的な行動にも通用することなのだ。

 それ自身は難しいことではないはずなのに、なぜ社会的な場では実行しがたいのだろうか。やはり、国家や企業に奉仕する科学者となっているためではないかと思えてくる。それでは科学への信頼を取りもどすことは不可能であろう。

科学の原点を忘れないでほしい

 上記のように、私は科学者の倫理という言葉で何か堅苦しいことを要求しているわけではない。単に、科学が国や企業のためだけでなく、市民の幸福のためにあるという原点を忘れないでいたいだけである。

 そのために、専門のことについて「何がわかっていて、何がわかっていないかを、最もよくわかっている存在」としての科学者の特性を活かすような生き方をすることを望んでいる。

 それに反するような言動があれば、率直に批判しあえる社会こそ健全なのである。その相互批判のための目安として倫理規範を考えてみたいのだ。