映画がつまらなくなったわけ

 私はけっこう映画好きです。ところが、4、5年前からでしょうか、映画というか洋画があまり楽しめなくなってきました。

(高校生の頃カーアクションにタマゲタ映画です)

 2000年頃から宮城県にもシネマコンプレックスがたくさんできて、一日に3本ハシゴしたこともあります。休日の定番娯楽でした。

 ところが今では見終わった後には疲労が残り、さらに終わってから筋書きを思い出せる映画もめっきり減ってしまいました。

 何でかな〜、と考えるとCG(コンピューターグラフィックス)に飽きたせいではないかと思いました。

 あらゆる作品がCG化され、現実にはあり得ない強烈なアクション、ど迫力の映像、瞬間的なショットの連続、はてはメガネをかけて見る3G映像の登場です!

 CGの出がけにつくられた「ジェラシックパーク」なんかはまだ新鮮で感動しましたが、今ではどの作品を観てもみな同じように見えて飽きてきたのです。

 BSテレビで放映される昔の洋画のほうが、映画館の大作洋画よりも数倍以上、迫力や面白さを感じるこの頃です。

 一昨日の新聞に、なるほどそんなわけがあったのか、と気づかされた記事がありました。

朝日新聞 2013.2.1

平川克美の「路地裏人生論」より

 ・・・渋滞の車窓に映る世田谷の街並みは、北国の地方都市のような景観に変わり、わたしたちはモノクロームの世界のなかに閉じ込められた。

 「いいもんだな」とわたしは呟いた。楽しみの温泉断念を悔しがる画家も、わたしの意見に同意してくれた。わたしは、ある哲学者が書いていた絵画についての言葉を思い出していた。

 「二次元の平面絵画は、現実よりひとつ次元が足りない。絵を見るものが、失われた次元を、観念のレベルで回復して絵が完成する」。確か、こんな言葉だった。あれは誰の言葉だったのかと、後で調べたが、出てこない。この雪の世界のように、わたしの記憶もまたモノクロームの薄皮で覆われている。

 ・・・それにしても、近頃は見えるものの次元が多すぎて、こちら側で回復できるものが何もない。映画の初期はサイレントだった。観客は役者の声を想像しながら自由に楽しめた。阪妻こと阪東妻三郎はサイレントからトーキーヘの変わり目で引退を考えたという。渋い二枚目にしては声が甲高かったからである。モノクロの映画はやがてフルカラーになり、ついには立体映像にまで進化している。どんどん次元が付け加えられ、その分だけこちら側の回復作業が失われていった。それはお仕着せの洋服のように不自由だ。

 そんなことを考えていたら、なんだかモノクロームの映画が見たくなった。家に戻って、熱い風呂に入り、本棚から黒沢明の「姿三四郎」を取り出した。戦時中に作られた、この巨匠の処女作。1944年の再上映のとき電力節約の理由などにより18分がカットされ、その部分はやがて散逸した。それがロシアに渡り、奇跡的に残っていた。雪が降り続けるような粗い画面が、散逸していた部分であった。

 なるほどです。

 不足の次元があるからこそ、私たちの脳みそが積極的に介入して作品を仕上げている!

 そうすると、「鑑賞とは眺めることではなく想像するものだ」といえそうですね。

 想像することは創造でもあることでしょう。

 なぜ大昔から変わらぬ文字だらけの本や、平面に描かれた絵が廃れないかの理由がわかった気がします。

 不足こそ想像力の源なんですね。

 そういえば「チラリズム」こそが、今も昔も一番エロティックですよね。

 あらゆることに応用できそうな「考えるヒント」をもらいました。